南北朝と二家分立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 04:48 UTC 版)
安東氏一族の所領は現青森県地方・道南地方に留まらず、鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽小鹿島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、惣領家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。鎌倉時代後期 から室町時代 には、南下し秋田郡に拠った一族は上国家を称した。 対して、津軽に残った惣領家は下国家と称した。下国家は宗季以降5代にわたり続き、南北朝時代には南北両朝の間を巧みに立ち回り、本領の維持拡大に努め、室町時代初期にかけて勢力は繁栄の最盛期を迎えた。安藤氏は、関東御免船として夷島を含む日本海側を中心に広範囲で活動する安藤水軍を擁し、しばしば津軽海峡を越え夷島に出兵し「北海の夷狄動乱」の対応にあたっていた という。齊藤利男は、14世紀末に夷島での反乱を鎮圧した下国家が、その功績により秋田湊一帯及び夷島日本海側の支配権を室町幕府から委ねられ、湊家を興したとしている。応永30年(1423年)には足利義量の将軍就任を祝い安藤康季が馬20頭、鷲羽50羽分、鵞眼20,000疋、海虎皮30枚、昆布500把を献上している。また、康季は足利義量御内書上では安藤陸奥守として見えるが、若狭国羽賀寺の再建に際しては奥州十三湊日之本将軍と称している。なお、盛季以前の下国家の系譜は諸系図によりまちまちであり、一級史料に見える名と系図の名が一致しない等系図の信憑性に疑問が持たれているため、実態については、いまだ研究の途上にあるが、盛季以降の系譜については生没年等に諸説あるものの、ほぼ疑いのないものと考えられている。 しかし下国家は最盛期後間もなくの15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ夷島に逃れた後、いったん室町幕府の調停で復帰したものの再度夷島に撤退 し、夷島から津軽奪還を幾度も試みたが果たせなかった。近年の発掘結果からは、十三湊遺跡の最盛期は14世紀半ばから15世紀前半と推測されており、文献資料と矛盾しない結果となっている。なお、「興国元年の大海嘯(津波)」により十三湊が衰退したとの伝承に関しては、存在しなかった可能性が高いとする論文 があるほか、発掘調査においても津波の痕跡は検出されていない。 下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で蝦夷管領の役割を果たしていたとも推察されている。更に、室町幕府の奥羽大名施策において、両安東氏を屋形号を称する家柄として秩序立てていたとする見解もある。この頃から「安藤」の表記を「安東」とする例が多くなるが理由は明らかでない。
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