鎌倉中期(1224-1266)
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「鎌倉文化」の記事における「鎌倉中期(1224-1266)」の解説
妙法院蓮華王院本堂千手観音坐像(京都市東山区、国宝) 蓮華王院本堂(三十三間堂)の本尊。運慶・快慶亡き後の慶派を代表する仏師湛慶(運慶長男)の最晩年の造仏である。ヒノキの寄木造による十一面四十二臂像。四十二臂とは前面で合掌する2本を除く40本の手がそれぞれ25の世界を救済することを示し(40 x 25で千となる)、千手とは千の方法で衆生を救済するとの意味がある。仏体・光背・台座はがっちりとしており、頭部と腕部はきわめて緻密である。玉眼がはめこまれている。なお、湛慶の作風は、運慶のそれを継承しながらも大胆さや厳しい緊張感を極力抑えたところに特徴があった。 妙法院蓮華王院本堂二十八部衆立像(京都市東山区、国宝) 千手観音の眷属で、現在は本堂東側に安置されているが、もとは本尊の周辺に安置されていた。いずれも寄木造で玉眼を嵌入している。作者不詳ながら運慶から2代目にあたる慶派仏師たちの作であることは確実である。作風はさまざまながら、とくに老貌痩身の婆藪仙像の真に迫った写実はよく知られている。 妙法院蓮華王院本堂千体千手観音像(京都市東山区、重要文化財) 本尊の左右に安置される千体仏(正確には1,001体ある)。うち124体は平安時代創建時の作で、残りは1249年(建長元年)の焼失後の再興像である。湛慶、慶円ら慶派の仏師、また彼らとは別に院継ら院派、隆円ら円派など京仏師の流れをくむ人びとなど多くの仏師を総動員して造られた。内訳は院派が最も多く、円派がそれに次ぎ、慶派は最も少なかった。すべて寄木造、彫眼で漆箔がなされている。各派の作風がみられるのと同時に、全体として均整がとれていることで知られる。 妙法院蓮華王院本堂風神像・雷神像(京都市東山区、国宝) 二十八部衆同様、千手観音の眷属で、高い岩座の上の雲に片膝ついて下界を見下ろすポーズであることから、もとは中尊の上方に配されていたものと推定される。やはり運慶2代目の慶派仏師たちの作と考えられ、13世紀前半の年代が想定される。いずれも寄木造で玉眼嵌入。風神は風袋を手にし、雷神は太鼓を背負い桴(ばち)を手にしている。眼を見開き、手を広げて暴れる陽気な風神と、眉をややひそめて少し内にこもるやや陰気な雷神とが対照的で、前者は朱で、後者は緑青で彩色されている。 雪蹊寺毘沙門天及び両脇侍立像(高知県高知市、重要文化財) 脇侍の吉祥天、善膩師童子とともに湛慶の作。ヒノキの寄木造で玉眼嵌入。右腕と左手首が失われているが、洗練された写実的手法を用いた寄木造で、穏やかな印象のうちにも力がこもる。 六波羅蜜寺空也上人像(京都市東山区、重要文化財) 運慶四男康勝の作で日本の肖像彫刻としては屈指の名作といわれる。寄木造で玉眼嵌入。六波羅蜜寺の創立者で「市聖」と称された平安時代の僧空也が念仏を唱えると、南無阿弥陀仏の音声が小さな仏に姿を変えたという伝承を表現している。左手に鹿の角のついた杖をもち、右手の撞木で胸にかけた鉦鼓をたたく歩き姿を描く。着衣が右肩からずり落ちたり、裾に皺を寄せるなどの細かい工夫が施されて情感に満ちた作品となっている。 東寺御影堂弘法大師坐像(京都市南区、国宝) 東寺における空海(弘法大師)の住房があったところと伝える西院御影堂北面の間に安置される。『東宝記』には、1233年(天福元年)、康勝によって造立されたとの記録がある。ヒノキ材の寄木造で玉眼嵌入。後世の弘法大師(空海)像の模範となった像である。
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