鎌倉中期とは? わかりやすく解説

鎌倉中期(1224-1266)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「鎌倉中期(1224-1266)」の解説

妙法院蓮華王院本堂千手観音坐像京都市東山区国宝蓮華王院本堂三十三間堂)の本尊運慶・快慶亡き後慶派代表する仏師湛慶運慶長男)の最晩年造仏である。ヒノキ寄木造による十一四十二臂像。四十二臂とは前面合掌する2本を除く40本の手がそれぞれ25世界救済することを示し40 x 25で千となる)、千手とは千の方法衆生救済するの意味がある。仏体光背台座がっちりとしており、頭部腕部きわめて緻密である。玉眼はめこまれている。なお、湛慶作風は、運慶のそれを継承しながらも大胆さ厳し緊張感極力抑えたところに特徴があった。 妙法院蓮華王院本堂二十八部衆立像京都市東山区国宝千手観音眷属で、現在は本堂東側安置されているが、もとは本尊周辺安置されていた。いずれも寄木造玉眼嵌入している。作者不詳ながら運慶から2代目にあたる慶派仏師たちの作であることは確実である。作風さまざまながら、とくに老貌痩身婆藪仙像の真に迫った写実はよく知られている。 妙法院蓮華王院本堂千体千手観音像京都市東山区重要文化財本尊左右に安置される千体仏正確には1,001体ある)。うち124体は平安時代創建時の作で、残り1249年建長元年)の焼失後の再興像である。湛慶慶円慶派仏師、また彼らとは別に院継ら院派隆円円派など京仏師流れをくむ人びとなど多く仏師総動員して造られた。内訳院派が最も多く円派がそれに次ぎ慶派は最も少なかった。すべて寄木造、彫眼で漆箔なされている。各派作風みられるのと同時に全体として均整がとれていることで知られる妙法院蓮華王院本堂風神像・雷神像京都市東山区国宝二十八部衆同様、千手観音眷属で、高い岩座の上片膝ついて下界を見下ろすポーズであることから、もとは中尊の上方に配されいたもの推定される。やはり運慶2代目慶派仏師たちの作と考えられ13世紀前半年代想定されるいずれも寄木造玉眼嵌入風神風袋を手にし、雷神太鼓背負い(ばち)を手にしている。眼を見開き手を広げて暴れ陽気な風神と、眉をややひそめて少し内にこもるやや陰気雷神とが対照的で、前者で、後者緑青彩色されている。 雪蹊寺毘沙門天及び両脇侍立像高知県高知市重要文化財脇侍吉祥天、善膩師童子とともに湛慶の作。ヒノキ寄木造玉眼嵌入右腕左手首が失われているが、洗練された写実的手法用いた寄木造で、穏やかな印象のうちにも力がこもる。 六波羅蜜寺空也上人像京都市東山区重要文化財運慶四男康勝の作で日本肖像彫刻としては屈指の名作といわれる寄木造玉眼嵌入六波羅蜜寺創立者で「市聖」と称され平安時代の僧空也念仏唱えると、南無阿弥陀仏音声小さな仏に姿を変えたという伝承表現している。左手鹿の角のついたをもち、右手撞木で胸にかけた鉦鼓をたたく歩き姿を描く。着衣右肩からずり落ちたり、裾に皺を寄せるなどの細かい工夫施され情感満ちた作品となっている。 東寺御影堂弘法大師坐像京都市南区国宝東寺における空海弘法大師)の住房があったところと伝え西院御影堂北面の間に安置される。『東宝記』には、1233年天福元年)、康勝によって造立されたとの記録がある。ヒノキ材の寄木造玉眼嵌入後世弘法大師空海)像の模範となった像である。

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