鎌倉仏教とは? わかりやすく解説

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鎌倉仏教

読み方:カマクラブッキョウ(kamakurabukkyou)

浄土宗浄土真宗日蓮宗曹洞宗臨済宗などの総称


鎌倉仏教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/09 05:02 UTC 版)

鎌倉仏教(かまくらぶっきょう、英語: Kamakura Buddhism)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて新たに広まった日本仏教の宗派を総称して使用される。奈良、平安時代の旧仏教の鎌倉時代における復興も含めて鎌倉時代の仏教全体を総称して使用される場合もあり明確な規定はない。


注釈

  1. ^ 黒谷別所は、比叡山の山中にあっても本寺である延暦寺とは別組織であり、官僧から離脱したの住む場所であった。いわば、官寺と俗界の境界的な場であるといえる。松尾(1995)p.30
  2. ^ 浄土宗開宗(法然回心)の時期をもっと後のこととする説もみられる。井上光貞は1190年「三部経釈」著述以前のある時期、赤松俊秀は1175年以降、福井康順は1204年以降など。
  3. ^ 『法然上人行状絵図』などでは実際に執筆にあたったのは安楽房遵西や真観房感西などであった。松岡正剛の千夜千冊『選択本願念仏集』
  4. ^ 虎関師錬『元亨釈書』では「能読」「能声」「能説」を総称して「音芸」と記している。
  5. ^ 現在、愛媛県松山市道後の宝厳寺門前に「一遍上人御誕生旧蹟」の碑が立っている。
  6. ^ 遊行派もふくめのちに時宗12派とよばれる。黒田(1979)p.226
  7. ^ 「旃陀羅(せんだら)」は、インドの最下層のヴァルナよりさらに下位に位置する被差別民「チャンダーラ」を漢音訳したものである。村上(1981)p.98村上重良は、そこから日蓮の出自を寺院の隷属民の出身だったと推定しているが、入間田宣夫は荘官クラスの子弟、尾藤正英は一般庶民の出身、松尾剛次は漁師の子としている。村上(1981)p.98入間田(1991)p.294尾藤(2000)p.106松尾(1995)p.33
  8. ^ 1271年(文永8年)に片瀬(神奈川県藤沢市)の龍ノ口でひそかに斬殺されようとした日蓮が天の御加護により助かったという龍ノ口法難は、後世に創作された伝説と考えられている。村上(1981)p.101
  9. ^ 「一念三千」とは、一瞬の思念のなかに三千世界の実相をみるという意味である。尾藤(2000)p.109
  10. ^ 奈良時代の華厳宗の僧良弁とは別の人物である。
  11. ^ 比叡山延暦寺の立場と日蓮の立場とは相違がみられるものの、両者は、禅に対する攻撃については、禅宗が止観・法華を排除ないし軽視していることを理由とする点で共通している。それに対し、栄西は建仁寺に禅のほか真言・止観の両業をおいている。多賀(1965)pp.94-95
  12. ^ 無住沙石集』(1283年成立)では栄西が権僧正に任じられたことを、「遁世の身でありながら僧正になったのは、遁世僧は非人のように蔑まれていたので、いわば遁世僧の地位の向上のために僧正になったのだ」と弁護している。松尾(1995)p.33
  13. ^ 建長寺2世の兀庵普寧(1197年-1276年)も宋からの渡来僧であるが、時頼死後は支持者を失って帰国した。鎌倉事典(1992)
  14. ^ 室町幕府の将軍足利義満もまた、臨済宗を保護し、宋の官寺の制にならい「五山十刹の制」を設けた。
  15. ^ 1240年代から14世紀なかばまでの約100年間で30名ほどの中国からの渡来僧、200名以上の渡海僧が確認されている。村井(2004)pp.67-69
  16. ^ 中世における禅林は多民族的な世界から成り立っており、さかんに文化交流がおこなわれて「アジアの国際社会」を創出していた。村井(2004)pp.83-86
  17. ^ 寺社造営料唐船として鎌倉幕府公認のもと建長寺船が南宋に、室町幕府公認のもと天龍寺船が元に、送られている。
  18. ^ 道元の妹の生んだ子が土御門天皇であり、承久の乱に連坐して配流された三上皇の一人である。ただし、乱には無関係で自ら土佐国に赴いた。
  19. ^ 永平寺は、1244年(寛元2年)に建てられた大仏寺が起源であり、その2年後、中国に仏教が伝わったとされる後漢の元号永平にちなみ、また、戦乱の世を倦いて「永久平和」を願ったところから改称された。
  20. ^ 『正法眼蔵』の書名は、真理を見通す知恵の眼(正法眼)によって悟られた秘蔵の法を意味している。村上(1981)p.97
  21. ^ 時間論については、75巻本中第20巻「有時」が「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」の一節とともに知られており、マルティン・ハイデッガーアンリ・ベルクソンの時間論に匹敵する時間哲学と評される。松岡正剛の千夜千冊『正法眼蔵』
  22. ^ 社会の上層階級と結ぶ臨済宗と庶民に広まった曹洞宗とを対照させて「臨済将軍、曹洞土民」の語も生まれている。村上(1981)p.98
  23. ^ 承久の乱で幕府軍の指揮官として京にのぼり初代六波羅探題となった北条泰時は高弁と出会っており、泰時が執権就任後に定めた『御成敗式目』の理念は高弁の思想から強い影響を受けたといわれる。
  24. ^ 松尾剛次は、高弁(明恵)を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる。松尾(1995)p.37
  25. ^ 現在では真言宗の寺であるが、江戸時代にあっては「御寺」と呼ばれ、歴代天皇の墓、月輪陵があった。
  26. ^ 松尾剛次は、叡尊を祖師とする教団を「新義律宗教団」と呼んでいる。松尾(1995)p.38
  27. ^ 叡尊が授戒した人数にくらべて親鸞の直弟子は75人であり、鎌倉時代にあっては親鸞の教団は決して代表的な教団とはいえなかった。松尾(1995)p.180
  28. ^ 東大寺大勧進職には、1181年養和元年)から1527年大永7年)まで、中断をはさみ46人が任じられているが、鶴岡八幡宮別当をつとめた第6代大勧進の定親をのぞくとすべて遁世僧であった。松尾(1995)p.70
  29. ^ 『八宗綱要』における「八宗」とは、『興福寺奏状』で記された「八宗」と同様、法相宗倶舎宗三論宗成実宗華厳宗律宗の南都六宗および天台宗真言宗の平安二宗のことである。
  30. ^ 密教系からは、鎌倉時代の13世紀前半ごろ、荼枳尼天を祀り「髑髏本尊」という性的儀式を行う名称不明の密教集団(便宜上「彼の法」集団と呼称)が現れたが、弾圧を受け、14世紀前半ごろに消滅した[44]。この集団は密教系であり、真言宗をある程度模してはいるものの、その血脈は正統な真言密教のものではない[45]。なお、通俗書や、研究者によって書かれた書籍でも2000年代以前のもの(例えば村上(1981)pp.107-108)では、この性的儀式団体を真言宗醍醐派三宝院系の正統な法流である真言立川流と混同するものが多いが、21世紀現在の研究では史料批判によって誤解であると判明している[44](詳細は「彼の法」集団#歴史)。
  31. ^ 叡尊は、戒律と密教(真言宗)を二本柱としてとらえ、両者を「日月のごとし」(戒律が太陽であるなら密教は月である)と論じて、両者不可分であることを説いている。松尾(1995)p.159
  32. ^ 黒田による「顕密体制」の議論は、『日本中世の国家と宗教』のほか「中世寺社勢力論」(1975)『寺社勢力』(1980)などに収載されている。佐藤(1991)p.97
  33. ^ 仏法王法相依論とは、『興福寺奏状』第9条「仏法王法なお身心のごとし。互にその安否をみ、宜しくかの盛衰を知るべし」に端的に示された考えで、仏法(八宗)と王法(公家政権)の共存共栄を説く思想である。佐藤(1991)p.92
  34. ^ 松尾は特に、「(親鸞)聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなり」(『歎異抄』)における親鸞の述懐を、悩める「個人」の述懐であり、阿弥陀の救済対象がまさしく「個人」であったことの証左と評価している。松尾(1995)p.165
  35. ^ 戦国時代に「旧仏教」と臨済宗五山派が凋落し、日蓮宗・浄土真宗・曹洞宗などが自立・発展を遂げたことから「戦国新仏教」の呼称を提唱する立場もある。平雅行「中世史像の変化と鎌倉仏教(2)」(2008) (PDF)

出典

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  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 松尾(1995)pp.19-47
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  60. ^ 松尾(1995)pp.120-141
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  64. ^ 平(1984)p.290



鎌倉仏教

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和讃」の記事における「鎌倉仏教」の解説

鎌倉時代には、和讃布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗天台宗などにも影響が及び、『高僧讃』・『神祇讃』などの和讃作られた。 親鸞1173年 - 1263年) 『浄土和讃』 『高僧和讃』 『正像末和讃』 『皇太子聖徳奉讃75首 『大日本国粟散王聖太子奉讃114首上記の和讃集の内、『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』は、総称して三帖和讃」と呼ぶ。 『正像末和讃』に収められている「正像末浄土和讃」の58首目は、「恩徳讃」と呼ばれ法要法話終わりに、和讃読誦する際とは別の曲調歌われる。 後に親鸞は、浄土真宗宗祖とされる一遍1239年 - 1289年) 『別願讃』後に一遍は、時宗宗祖とされる。別名、「遊行上人」。 他阿1237年 - 1319年) 『浄業和讃』(じょうごうわさん)『浄業和讃』は、「往生讃」と他13からなる。 後に他阿時宗では、「遊行上人二世」・「時宗二祖」とする。

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鎌倉仏教

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本尊」の記事における「鎌倉仏教」の解説

釈迦如来 臨済宗 曹洞宗縁により、観音菩薩阿弥陀如来地蔵菩薩等) 禅宗寺院では仏像と同様、時にはそれ以上祖師像重視する傾向がある。 久遠実成釈迦牟尼仏 日蓮宗法華宗弘安5年日蓮入滅直筆大曼荼羅中央題目記した宝塔と、その両脇釈迦如来多宝如来配し、その下に日蓮像配する三宝尊日蓮正宗弘安2年10月12日本門戒壇之大御本尊通称・板曼荼羅創価学会・SGI1991年(平成3年)の破門までは日蓮正宗版の御本尊御形御本尊 1993年平成5年)に浄圓寺所蔵日寛書写御本尊1720年享保5年書写)の御形御本尊会員向けに付与阿弥陀如来 浄土宗立像坐像浄土真宗立像) - 一仏本尊とする。形態は、木像絵像もしくは、「南無阿弥陀仏」の名号名号本尊)。

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鎌倉仏教

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日本思想」の記事における「鎌倉仏教」の解説

「鎌倉仏教」も参照 浄土信仰平安時代末期浄土宗によって始められたもので、「阿弥陀如来慈悲通じて開放」に強く結び付けられ阿弥陀如来の力による救済を。浄土宗開いた法然は他の禁欲的な実践を完全に廃した。彼は弟子阿弥陀如来信仰し熱心に南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できると説いた彼の弟子親鸞新たに浄土系宗派開き法然教え果たしぬいて、阿弥陀如来の力に完全に頼ることを説いたまた、親鸞は、阿弥陀如来による往生対象者俗世の自ら自分の罪を自覚したがっている悪人であると主張した時宗開いた一遍は「踊念仏」を始めた浄土信仰とは対照的に禅宗坐禅による自己覚醒試みた栄西中国臨済宗学んだ。彼は弟子に「公案」(難題)を与えてそれを解かせ、それによって弟子たち自己啓蒙した。臨済禅鎌倉時代の上武士階級から広い支持集めた道元中国曹洞宗学んだ栄西に対して、彼は弟子に「只管打坐しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)による覚醒説いた曹洞禅地方武士から支持得た日蓮ははじめ天台思想の影響受けていたが、やがてその思想発展させ独特の思想へとたどりついた日蓮生きた鎌倉時代日本戦乱状態で、政治は民の幸福を目指しているとはとても言えない状態で、民は貧しく不幸な状態におかれたままになっていたが、そうした政治状況目の当たりし、また仏教界にもすでに諸宗があるにもかかわらず、そのどれも民の悲惨な状況十分に改善するになっていない状況ふまえて日蓮は「諸宗本尊迷えり」(心や意識向けたり祈る対象となる仏や仏典を選ぶ段階ですでに問題がある)と指摘し、(もともと平安時代には日本届いていて、もともとは知られていた)法華経こそが正し教えである、と説き、「南無妙法蓮華経」と唱えることを広めた。(法華経以外の経典では、この世で人の行動社会改善することは半ばあきらめているものも多くこの世以外に空間思い描かせること(例えば、地の下に「地獄」を描いたり、はるかかなたに「清らかな浄土」があると思い描かせること)で人々に悪い行動思いとどまらせたり、心理的な救いもたらそうとするが、法華経という経典教え目指す方向はそれとは異なっていて、人々この世境涯価値観生き様)を変えこの世たくましく生きるための教えや、人々この世生きている間に互い幸せにするための教え、が含まれている。)だから日蓮は、政治実態見たり、様々な経典内容学んだ後に、民を救うためには他の経典ではなく法華経を選ぶべきだと見定めたわけである。そして日蓮は、信心目的というのは(死んでからではなく一生のうち(つまり生きているうちに)に「仏に成る」こと(=正し境涯を得ること)(=「一生成仏」)と説き、また自身社会問題解決すべく具体的に行動し当時権力者幕府将軍に対しても、(権力者のためではなく)民の幸福のために政治を行うという正し思想立てるべきこと、を説き、また「汝 須く一身安堵を思わば 先ず四表静謐を祷らん者か」(あなたが自分安泰願っているのなら、まず周囲世界)の平安・平和を祈るべきです)と説きそうすれば結果として国も平和になるといった内容の手紙を届け(『立正安国論』)、結局、皆が「南無妙法蓮華経」と唱え法華経教え実践することで(様々な働きによって)やがて国の平和が実現されてゆく、とした。なお、日蓮教えには(日本の思想には珍しく西洋キリスト教の「受難思想とも相通ずるような面があり)、《受難》を予期しつつも、むしろそこにも人生の意味見出す思想含まれていることは、様々な学者から指摘されている。日蓮広めた教え日蓮宗となった上述のような内容教えなので、本尊(=祈る対象)が法華経以外になることを好まず、また積極的に他の宗派信者にも働きかけて、他の本尊捨てさせ法華経に向かわせ(=「破折」)ようとする傾向があり、既存仏教宗派とは緊張関係が生まれた

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