た‐ずき〔たづき〕【方=便/活=計】
た‐つき【方=便】
読み方:たつき
⇒たずき(方便)
た‐どき【方=便】
ほう‐べん〔ハウ‐〕【方便】
方便
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/01 14:57 UTC 版)
方便(ほうべん)には、次の3つの意味がある。
- 仏教において、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する仏教用語[1][2]。本記事で詳述。
- 目的のために利用する便宜の手段[1][2]。手立て[1]。「嘘も方便」などの用法がある[1][2]。
- 都合のよいさま[2]。多くは「御方便」という形で用いられる[2]。
原語
「方便」はサンスクリットの upāya ウパーヤの漢語訳であり[2]、upāya は、upa〜を語幹に持つ動詞(=「近づく」「到達する」)から派生した名詞である。すなわち、[要出典] upāya の原義は「近づく」、「到達する」[2]。
概説
仏教用語としての「方便」は、衆生を教え導く巧みな手段や、真実の教法に誘い入れるために仮に設けた教えを意味する[1][注釈 1]。
方便は十波羅蜜の第七である方便波羅蜜としても知られる[3]。
方便の意味の展開
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- 最初期の仏教においては、ウパーヤは衆生が仏や悟りに近づく方策のことを主に指していた。
- 初期〜中期大乗の経典においては、ウパーヤは仏の智慧による衆生を済度に近づけるための巧みな方法を主に意味するようになり、菩薩の重要な徳目である。
- 『般若経』においては、仏の悟りに到達するために菩薩は方便として、執着しないということ(般若波羅蜜)を実践するのだ、とされる。
- 『大智度論』においては、菩薩道に般若波羅蜜と方便の二つがあるが、ふたつはひとつなのだ、と説かれる。
- 『法華経』においては、方便は仏が衆生に真実を明かすまでの一時的な手段、となってあらわれる。方便は章の題名ともなっており(「方便品」)、それまでに仏が説いた三乗の教えは、「方便」すなわち「仮の教え」である、と説かれ、実は三乗の人すべてが仏となる一仏乗だけがあるのだ、と説かれる(会三帰一)。また、如来寿量品では、釈迦が涅槃に入ったのも方便であって、実は仏は久遠の過去から常住しているのだ、ということが明かされる(日蓮なども参照)
- 『大般涅槃経』においては、『法華経』の流れを汲みつつ、三乗教は方便であるとして一乗を説いている。しかし『涅槃経』では仏性を根本に据えて法華経よりも詳細に理論的に会三帰一の根拠を明かし、『法華経』の久遠実成を推し進めて、涅槃・入滅も方便として、さらに久遠常住を説く。また諸行無常など仏法の基本的教理も発展的に捉え、それまでの「無常・無我・苦・不浄」を方便として涅槃の境地こそ「常楽我浄」だと説いている。
- 密教においては、方便の意義には大きな転換がある。7〜8世紀頃成立の後期大乗である密教経典『大日経』においては、方便を究極的に仏の一切智智そのものとしている。すなわち、そもそも仏が一切智智を獲得する根は大悲であり、因は菩提心であると説かれ、如来が大悲によって衆生を救済しつづける「方便」に価値が置かれるようになり、方便は手段であるだけでなく同時に目的でもあり、二つは完全に一致したものなのである。
仏典における扱い
原始仏典に見られる逸話
- 『クッダカニカーヤ』(Khuddaka Nikāya)の「長老尼の譬喩」(Therī Apadāna)の第22章「キサーゴータミーの譬喩」(Kisāgotamī apadāna)には、釈迦が、我が子を亡くしたキサーゴータミーという女性に対して、「死者を出したことの無い家からカラシの種をもらってきたら、その子が生き返る薬を作ってあげよう」と言う場面がある。キサーゴータミーは家々を回り、どの家にも生老病死というものがあることを知って、釈迦の弟子となった。
- 『マッジマニカーヤ』(Majjhima Nikāya)の第86経「アングリマーラ経」( Aṅgulimāla Sutta)には、難産で苦しむ妊婦を勇気づけるために、釈迦が、出家以前は殺人鬼であった弟子アングリマーラに対して、「女人よ、私は、聖なる生を得てからこのかた、故意に生きるものの生命を奪ったという覚えがない。その真実によって、あなたに安らぎが、胎児に安らぎがあるように」と言うように命じる場面がある。妊婦はその言葉を聞いて苦痛を和らげることができた。
脚注
注釈
出典
関連項目
方便
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 22:44 UTC 版)
方便法輪。日本の禅では、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する、柔軟な心構えをいう。教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。 只管打坐(しかんたざ) ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。意識を捨てて無意識下において坐禅する、坐禅そのものになりきることを意味する。いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する(坐忘)。この手法によって初心者でも、より深い禅定の境地を、容易に体験可能であるとされる。 ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばず、そのために初心者向けの方便として只管打坐・修証一如こそが禅宗の極意であるということが言われる。坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。 ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。 公案禅(こうあんぜん) 達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。 そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。無理な想像は妄想となって理解に歪みを生じ、自ら生み出した曲解に妨げられてますます悟りから遠のくという事態は、昔から多くの師家を悩ませてきた。経典を学ぶにしても、学び手に必要なものはまず悟りの体験である。悟りというものは自分の心で自分の心を確認し、自分の心で自分の心を理解するものである。他人に頼って何かを明らかにするとか、自分以外の何かを利用して体得するようなものではない。 従って、悟るためには何よりもまず坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である。こうした問題意識から、思考癖のある聡い修行者に坐禅を実践させるために、禅師たちが考え出した方法が公案禅である。修行者に公案を与え、行住坐臥つねに公案の答えを考えさせるのである。 公案 公案は直に悟りの境地を指し示したものであり、ひらめきと一体化した言い表せない感情的なものである。心がけがよくなく、このままではまちがった方向に進むおそれのある修行者に対して、師家が薬のような意味合いで修行者に授ける。 内容は、昔の高僧の言葉を使うこともあれば、即興で作られることもある。公案を与えられた修行者は、その言葉がどのような本意から創造されたかを正しく悟って、師家の前で心を以て回答することを要求される。公案の多くが自己矛盾的文体を為しており、そのまま意味を理解しようとしても論理的に破綻する場合が多い。公案の答えは常識的な思考の届かないところにあり、自己を消し去ることで矛盾を解消したり、矛盾を止揚して高次の段階で統一したものである場合が多い。そういった答えに至る過程に禅の極意が含まれているとし、修行者を正しい悟りに導くための工夫の一つとされる。 ただし、このような学習を捨てて坐禅させるという方法は、師家の善良な監督下にあって庇護を受けることができる出家の僧侶に向けたものであり、在家の信者は坐禅と学習の両方を行う必要があるとされる。 内観 禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で安穏であれば仏道を求めることが困難だからである。釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を、自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。 不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するような、めでたい事は少しばかりの艱難辛苦なしには、得られるものではないという覚悟が、必要であるとされる。 とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。 二入四行 達磨が伝えたとされる二つの真理への至り方と、四つの実践方法。悟りに至る方法は数多くあるが、それらはすべてこの二つに要約されるとする。
※この「方便」の解説は、「禅」の解説の一部です。
「方便」を含む「禅」の記事については、「禅」の概要を参照ください。
方便
「方便」の例文・使い方・用例・文例
- 間に合わせの方便
- 目的は手段を正当化する;うそも方便
- 諺にある通り、「嘘も方便だ」
- 嘘も方便。
- その会社の株の仕手戦は、倒産の危機が差し迫っていることを隠す方便にすぎなかった。
- 《諺》 目的は手段を正当化する, 「うそも方便」.
- 《諺》 目的さえよければ手段は選ばない, 「うそも方便」.
- (特に宗教上の)方便としてのうそ; 宗教にかこつけた詐欺師.
- それは君の両親を納得させる方便になるか.
- 嘘も方便.
- 方便の嘘
- 嘘も方便
- 釈迦は方便を設けて衆生を済度した
- 目的は手段を神聖にす(嘘も方便)
- 目的は手段を神聖にする(嘘も方便)
- 目的は手段を神聖にす(嘘も方便)【イディオム・格言的】
方便と同じ種類の言葉
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