森鷗外
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森 鷗外(もり おうがい、1862年2月17日[1][注釈 1]〈文久2年1月19日[2]〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医(軍医総監=陸軍中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等は従二位・勲一等・功三級、医学博士、文学博士。
注釈
- ^ カシオ計算機・「KE!SAN-和暦から西暦変換(年月日)」で、太陰太陽暦の文久2年1月19日を西暦の年月日に変換すると、1862年2月17日と計算される(2020年3月10日に計算)。
- ^ 入学時、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科
- ^ 祖母も養子であり、祖父母の代で森家の血筋が絶えていた。このため鷗外は、親戚の西周と血が繋がっていない。
- ^ 鷗外誕生の前年、祖父の白仙が東海道の土山宿で病死したため、特に祖母は鷗外を白仙の生まれ変わりといって喜び、後年、鷗外が留学と出征から無事帰国する度に、はらはらと涙を落としたという(小金井 (1999))。
- ^ ドイツ人教員がいて生徒の1割強が華族の身分。当時の父親の収入を踏まえると、西周が学費も世話をしたという説がある。
- ^ 数え年12歳。この時に数え年の12歳に2歳多く偽り14歳であり、数え年を含まない場合は、13歳である。
- ^ 数え年19歳。予科の入学試験の時に、年齢を偽っている為。東京大学医学部を11歳で入学して18歳で卒業した唯一の人物。
- ^ 鷗外の陸軍省入りには、当時軍医総監だった林紀と昵懇の間柄である西周の助力も働いていたようで、1882年(明治15年)5月には同期の中で初の「軍医本部付」となった。山﨑(2007)、41–42頁。
- ^ 『医政全書稿本』全十二巻の前部は、陸軍衛生制度のほか、軍隊での儀礼や法制、経理、給与、設営などが取り上げられた。また、その後部は、軍陣衛生の各論で構成された。二十歳の鷗外は、そうした膨大な内容の稿本を十か月ほどで編集したのである。山﨑(2007)、45頁。
- ^ 明治17年留学生のメンバーは森林太郎、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造の10名、鷗外がこの10名を「日東十客ノ歌」を書いている。『鷗外留学始末』5頁。
- ^ 鷗外は、ドレスデンに移った年のクリスマス休暇で、ライプツィヒに出かけた。予定を延ばして滞在したものの、12月30日さらに滞在を勧める人たちに別れを告げた。金子 (1992)、15–18頁。
- ^ キルケの名は、ドレスデン滞在時の日記に17回登場し、鷗外がドレスデンを離れた後も、つき合いが続いていた(金子 (1992)、42頁)。
- ^ 近代細菌学の開祖とされるコッホは、ミュンヘン大学の恩師ペッテンコーファーと対立していたが、北里柴三郎の勧めもあり、鷗外はコッホにも師事した。
- ^ 9月26日は、オランダ代表の「欧州外の戦争で傷病者を救助すべきか否か」という問題提起に、「眼中唯〃欧州人の植民地あるを見て発したる倉卒の問いなり」と発言。翌27日の最終日は、石黒忠悳の許可を得て「アジア外の諸邦に戦いあるときは、日本諸社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と演説し、喝采を博した。ちなみに、その演説主旨は、4月18日に同期の谷口謙と共に乃木希典、川上操六の両少将を訪問した時、どちらかの少将の発言内容とほぼ同じである。もっとも当時、あまり知られていない極東の小国(モンゴロイドで非キリスト教徒の国)の通訳官が、国際会議で発言すること自体、相当勇気が必要であろう。山﨑(2007)、66–67, 70–73頁。
- ^ 現在、来日したドイツ人女性について3人の名が挙がっている。植木(2001)は、年上の既婚者エリーゼ・ヴァイゲルト(Elise Weigert。ヴィーゲルトWiegertの可能性も指摘された)説を否定し、遺産を得ていた仕立物師の娘アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト (Anna Berta Luise Wiegert)(1872年12月16日- 1951年)説を新たに唱え、AnnaとLuiseが鷗外の子供達の名(杏奴、類)と一致することなども指摘した。森鷗外と「エリス」―ドイツ・ベルリン。しかし、その後に刊行された林(2005)と小平(2006)は、植木説ではなく、従来の主流である年上の既婚者説をとった。2010年11月19日、植木説に基づくTV番組NHKハイビジョン特集「鷗外の恋人~百二十年後の真実~」(90分)が放送された。放送直後、今野(2010)が刊行され、当時15歳のドイツ人女性が単身来日でき、また偽名でも日独間を行き来できる可能性があったこと等を明らかにした。2011年3月、六草いちかがエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト説を発表した。その根拠として、名前、出生地、帰国後の職業、鷗外帰国時の年齢(21歳)、鷗外の娘の名前:茉莉と杏奴(エリーゼのミドルネームと妹がアンナ)などを挙げた。六草(2011)鷗外「舞姫」のモデルは彼女? 洗礼記録発見、経歴一致鷗外「舞姫」モデルの晩年明らかに=ベルリン在住のライターが調査
- ^ 日本で最初に、ゾラの文学的傾向の実体を紹介するものとなった。ちなみに、日本でゾラの自然主義の影響が出始めたのは、明治30年代である。山﨑(2007)、100頁。
- ^ 新声社の同人は、落合直文、市村瓚次郎、井上通泰、三木竹二(鷗外の実弟)、小金井喜美子(実妹で既婚)、鷗外本人の計6名。ただし竹二は、「於母影」の共訳に参加していない。山﨑(2007)、103頁。
- ^ 『しがらみ草紙』は、3号に坪内逍遥と幸田露伴の、4号に山田美妙と石橋忍月の文が掲載され、その地位が高まった。最盛期に2,000部が売られた。
- ^ 鷗外の「翻訳」(広義)ぶりの現代的意味は、長島(2005)が参考になる。ちなみに、『鷗外全集』53巻(岩波書店、1951-1956年)の内訳は、著作編33巻、翻訳編18(戯曲10、小説6、戦論・医事2)巻、別巻2である。
- ^ 日清戦争後、東京美術学校に復職した後、審美学と西洋美術史を講じた(新関(2008)、180頁)。
- ^ (山﨑(2007)、202頁)は、「遅れた社会に科学を育てるには条件が必要。それは「標準」である。「芸術」の「標準」として鷗外は乾いた日本の土壌に「審美学」を植え付けようとした」と指摘した。
- ^ 当時、遼東半島にいた鷗外などとの交際は、遼東五友の交わりといわれた。その五友とは、新聞『日本』の正岡子規と中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨、鷗外の5人である(佐谷(2009)、54頁)。子規との交際は小倉に転勤するまでつづき、不折とは生涯続いた。
- ^ 1月に創刊された『めさまし草』は、3月から「三人冗語」が掲載され、9月以降これに依田学海、饗庭篁村(あえば こうそん)、森田思軒、尾崎紅葉らが加わり、「雲中語」として評判になった。紅葉、川上眉山、正岡子規、高浜虚子、落合直文などが文を寄せた。また「於母影」の共訳者であった井上通泰の実弟、柳田國男も松岡国男の名で歌評を書いており、夏目漱石の俳句も掲載された(3号)。
- ^ 「児玉せき(32)なる女を十八、九の頃より妾として非常に寵愛し、かつて児まで挙けたる細君を離別してせきを本妻に直さんとせしも母の故障によりて果たす能わず」とある。現代教養文庫、1992年、14頁。児玉に関しては、森まゆみが「無縁坂の女」として章を立て、いきさつ等を記した。森まゆみ (2000)、297-343頁。
- ^ この人事は、鷗外本人の受け止め方を別にして当時の状況を踏まえれば、左遷といえるのか疑問視する声もある(松本 (1997)、108-111頁)。その小倉転勤は、前任者の江口襄(作家江口渙の父。渙の『わが文学半生記』(青木文庫、1953年)には父の友人として鷗外の名が何度か登場)が着任後わずか8か月で辞職(軍医の開業禁止を受け、病院での診療に専念)したために行われた穴埋め人事である。このため、後任の鷗外は、ほかの新設5師団の軍医部長5名と同じように1902年(明治35年)3月まで在任した。
- ^ 末弟の森潤三郎は、『戦争論』の翻訳について「この事は軍人社会に兄の声望を重からしめ、山県元帥に名を知られる因となった。」と書いた(森潤三郎 (1942))
- ^ 後年、小倉時代を素材にした短編小説『鶏』で表れたように、田中美代子は、小倉での生活によって「それまで一途に中央志向に凝り固まっていた鷗外は、だが次第に、日本の懐深く息づいている土着の魂というべきものに目覚めていったのではなかろうか。」と指摘した(森鷗外 (1996)、「解説」)。また、「上京して以来、(中略)ドイツでの留学生活を除いて、鷗外の生活の場であり続けた東京と比べると、人々の生活・行動規範が緩やかで、ある意味で自由奔放な北九州のローカル都市・小倉と、そこで生活する人々の生活風俗は、鷗外にとって異質で、新鮮な世界を意味していた」(末延 (2008)、112、114頁)。
- ^ 貝原益軒(博多)の墓を皮切りに、加藤清正(熊本市)、高山彦九郎(福岡県久留米市)、広瀬淡窓(大分県日田市)など、文人と武人の墓を探して参り、墓碑を筆記した。また東京に出張する途中、客死した祖父、森白仙(1861年、東海道の土山宿で没)の墓も参った。末延 (2008)、117頁。
- ^ 西周等らとともに江戸幕府派遣留学生であった赤松則良海軍中将の長女、登志子との結婚生活は、1年半ほどで破綻した。 1888年(明治21年)9月8日に鷗外が帰国した直後、9月12日にドイツ人女性が来日して10月17日に離日した出来事をきっかけに、留学中より西周から話のあった縁談が急に進み(9月18日に祖母が、10月17日に母と弟の竹二が西邸を訪問)、翌年2月24日に鷗外と登志子は結婚した(森まゆみ (2000)、148頁)。鷗外の弟2人、登志子の妹2人、女中が同居し、また新居には同人などが数多く出入りした。後年、幸田露伴は、鷗外宅に行くと夜12時になっても1時になっても引き留められたと回想し、内田魯庵も、夜が更けたので帰ろうとすると「マダ早いよ、僕の処は夜が昼だからね。眠くなったらソコの押入から夜具を引きずり出してゴロ寝をするさ。賀古なぞは12時が打たんけりや来ないよ」といわれ、実際に賀古鶴所が12時すぎに来たのに数回出会ったと回想した。1890年(明治23年)1月に小説「舞姫」が発表されると、9月13日に長男於菟が生まれたものの、10月4日に鷗外は同居する弟2人を連れて赤松家所有の家を出て行った(仲人の西周が激怒し、鷗外は西邸の出入りを禁じられた)。 離婚の理由は、登志子の容姿や嫁姑問題(平川ら 1997a、177–178頁)など、いくつか推測されてきたものの、分かっていない。森於菟によれば、父鷗外は母に結核を移されたと祖母が語ったという。その真相は不明であるが、少なくとも鷗外は、1909年に戯曲「仮面」(離婚して2年後に結核が発症したことを示唆)を作り、また没する10年ほど前から結核が発症していた。森まゆみ (2000)、137-183頁。山﨑 (2007)、98-99頁。
- ^ 1875年(明治8年)5月に島根県安濃郡で生まれ、37歳で没。鷗外は随筆「二人の友」を発表しており、後に芥川龍之介も第一高等学校でドイツ語を習った福間を回想して随筆「二人の友」を発表した。
- ^ ただし僧侶の玉水は、敬愛する鷗外の後を追うように上京したものの、嫁姑問題にかかわったため、森家に出入りできなくなり、失意のうちに東京を離れた。小倉の新婚時代には、家主の10歳くらいの娘で、鷗外にかわいがられた盲目の八重も「お祖母さんがそんなに毎日伺ってはお邪魔じゃろうと申しますが、また伺いました」といって鷗外宅によく来ていた。ときには「お祖母さんが怒ると私の事を穀盗人と申します。そう言う時は森さんがそれはそれは御親切に慰めて下さいます」と、目に涙をたたえて鷗外の新妻に訴えることもあった。小堀 (1981)、150頁。
- ^ 凱旋した1906年(明治39年)1月12日には、親族のほか、佐佐木信綱や上田敏、小山内薫など一同で祝宴が催された。
- ^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、鷗外とは東京大学医学部の同期生であり、かつて鷗外を採用してもらえるように陸軍軍医監の石黒忠悳に熱い推薦状を提出した。学生時代の2人を知る緒方収二郎は、鷗外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した(山﨑 (2007)、41、310–311頁)。また小池は、7か月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、鷗外と毎月1 - 2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に鷗外をつけた。鷗外が小倉にいた1900年(明治33年)5月末、小池医務局長の推薦に基づく軍医の叙勲が行われ、鷗外は小池と同等に勲四等に叙せられた。 日露戦争後、第一軍 – 第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは鷗外だけであり、会議などでも鷗外がナンバー2の地位にあることが明確にされた。以上のように、鷗外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、小池には鷗外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣の高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追及とその反動(山県有朋元帥や大山巌元帥や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。
- ^ 鷗外は、1910年(明治43年)12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたとの説がある。なお同年12月14日、与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、鷗外から一週間にわたって無政府主義・社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。平川ら (1997b)、303–306頁。
- ^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山縣有朋とは、親友の賀古鶴所を通して関係があった。1906年(明治39年)6月10日、鷗外と賀古が佐佐木信綱と井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山縣に話のついでに告げたところ、山縣も力を添えることになった(山﨑 (2007)、285頁)。その歌会常盤会は、山縣が他界するまで15年間続いた。もっとも5か月後、前年から体調を崩していた鷗外も他界した。鷗外が山縣の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、陸軍省医務局長を退く前年の1915年である。
- ^ 末延は、小説「鼠坂」についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」と副題をつけた(末延(2008)、246–281頁)。
- ^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある(池内(2001)、147–157頁)。
- ^ 鷗外の歴史小説は「阿部一族」「大塩平八郎」「堺事件」、戯曲「曾我兄弟」(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。 「安井夫人」(1914年4月)以来、「山椒大夫」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」など家族の情を主体としたものが多くなっていく。山﨑 (2007)、655頁
- ^ 「空車」に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内 (2001)、198–207頁。
- ^ 唐木順三に従えば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、鷗外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である(片山 (2007)、106頁)。
- ^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。 博物館総長として毎秋、鷗外は正倉院の虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1か月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に増え、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法が改まり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。山﨑 (2007)、705-707、785頁。
- ^ すでに臨時「宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語や令旨など、特別な文章の起草、執筆に関わっていた。 1915年(大正4年)5月には、大典前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」を作った。御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章への関わりは1921年(大正10年)頃まで続いた。山﨑 (2007)、625、702–703頁。
- ^ 一連の経緯は、猪瀬 (2002)が詳しい。
- ^ ただし、遺言を残した翌7月7日に大正天皇と貞明皇后から葡萄酒が下賜され、8日に摂政宮(後の昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。鷗外本人は、遺言を残した6日夜半から容体が悪化し、7日夕刻から昏睡状態に入っており、没した翌10日の『東京朝日新聞』が最期の様子を次のように報じた。 8日午後の注射以来少しく容体を持直し、午後10時頃には何事か看護の人に言はうと試みていたが聞きとれなかった。それから不安のうちに夜が明けて9日午前4時にわかに容体が変わったので…… — 山﨑 (2007)、811-813、843頁[一部を平仮名にし、句読点を入れた]
もっとも、死去する前日の8日に従二位に叙せられたことで、大谷 (1983) (2000)は鷗外最後の遺言を疑問視し、鷗外の叙爵への執着を指摘した。志田 (2009)は鷗外が石黒忠悳によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正5年1月6日)の記述を挙げ、鷗外が臨終の際に袴を履いていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘した。
- ^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は鷗外、森林太郎」と書いた太宰治は、希望した通り、鷗外の墓の前(はす向かい)に埋葬された(猪瀬 (2002)、9頁)。
- ^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・鷗外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。 当時の鷗外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、鷗外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。(平川ら (1997c)、176–177頁)。
- ^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年(大正3年)7月2日に上演を予定し、鷗外に訳を委嘱した。ただし、第1稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わなかった。その後、第2稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。 しかし、91年後の2005年(平成17年)9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、鷗外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森鷗外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。
- ^ たとえば、1889年(明治22年)8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。
- ^ 田山花袋は、 私は殊に鷗外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鷗外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。 — 「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月
と書いた。
日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5か月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の鷗外を訪ねており(初対面)、2人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた(平川ら (1997a)、388、403–405頁)。
- ^ 鷗外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年(明治42年)11月28日(日曜日)、[[東京美術学校 (旧制)|]]校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。 故人は、東京美術学校と関係がなかったものの、かつて同校で教鞭を執っていた鷗外が発起人に黒田清輝を巻き込み、校友会倶楽部での展覧会開催が実現した。その展覧会カタログは、全出品作23点の写真と、黒田清輝や松岡寿、長沼守敬など同時代人による回想とが掲載されており、明治美術史の貴重な資料となっている。また、日本にまだ美術館学芸員が存在しなかった当時、公務(医務局長等)と執筆活動で多忙を極めていた鷗外がやり遂げたことは、今日の美術館学芸員の先駆的仕事でもあった。新関 (2008)、138–140頁。
- ^ 弟子の有無に限らず、松本清張による鷗外と漱石の比較が興味深い(松本 (1997)、93–97頁)。鷗外と漱石の対比は、生前の鷗外を知る平塚らいてうもしており、(金子 (1992)、314-315頁)で読むことができる。
- ^ そうした鷗外の女性観については、森鷗外 (2006)が参考になる。同書には、一葉や晶子、らいてうの評なども集められている。 また、金子 (1992)には、鷗外と女性解放運動に関する記述があり、らいてうの回想文を引用(322頁)し、鷗外が日本初の女性団体新婦人協会の設立にどう関わったのか等を紹介している。ちなみに、若き日の鷗外は、1885年(明治18年)9月28・29日にライプツィヒでドイツ初の女性団体「独逸婦人会」(1865年設立)の第13回総集会を傍聴していた。
- ^ (山下 (2008)、288-289頁)は、師団軍医部長は師団衛生の全管轄権を持っているのだから好きにすればよいとの暗黙の容認の含みがあったと推測している。(坂内 (2001)、178頁)は、「無言の拒否、拒否以上の拒否」とみなしている。
- ^ その創設の半年前、1908年(明治41年)1月18日に海軍軍医の本多忠夫(1913年に軍医総監、1915年に海軍省医務局長)は、医学雑誌『医海時報』の掲載文に「脚気調査会の設置は、早くからわれわれの切望してきたところである」と記述し、その掲載誌も脚気調査会の設置を強く求めていた(山下 (2008)、344頁)。
- ^ 山下は続けて「脚気根絶への道を拓いた森林太郎の功績は、ひときわ高く顕彰しなければならない。(中略)論理主義の森と実践主義の高木兼寛とは見解と手法に相違があり、それが一見対立的な姿に見えた。しかし「脚気の撲滅」という究極の目的は同じであった。(中略)/明治の脚気紛争のなかに出現したこの森林太郎と高木兼寛の脚気業績は、医学史上不滅の業績である。末永く顕彰記念しなければならないのである。」と記述した(山下 (2008)、461頁)。
- ^ (坂内 (2001)、211–231頁)は、鷗外が最後まで細菌説に固執したという見解のもと、1908年(明治41年)7月4日の調査会(第1回会合)で寺内正毅陸軍大臣が麦飯の効用を強く示唆したにもかかわらず、次の会合で示された活動方針から麦飯を含む栄養の問題が排除され、また調査会発足時の委員である都築甚之助が細菌説から栄養説に転じた直後に委員を罷免された等の見解を示し、調査会の活動を否定的にとらえた。確かに調査方針では、微生物学など「学」の付いた研究分野までしか明記されておらず、その第二条に列記された研究分野は、微生物学、医化学、病理学・病理解剖学、臨床医学、流行病学であり、栄養学がない(山下 (2008)、362頁)。もっとも、医化学を修めた佐伯矩によって日本で栄養学が芽生えたのは、調査会が設立されてから6年後の1914年(大正3年)であった。初期の調査会では、1910年(明治43年)3月–10月と1911年(明治44年)6月–1912年(大正元年)10月の2回にわたり、食餌試験が行われた。また、坂内 (2001)は都築が「罷免」されたと理解したのに対し、(山下 (2008)、375頁)は「辞任」とする。その都築は、1910年(明治43年)3月の調査会で「脚気ノ動物試験第一回報告」をしており、同年12月9日に委員を辞めた。翌春、東京医学会総会で未知栄養障害説を発表(脚気ノ動物試験第二回報告)しており、のちに森委員長の配慮によって調査会でも発表した。その後も、製糠剤アンチベリベリンの開発とその効否試験など、精力的に研究を続けた。
- ^ 鷗外が岡崎桂一郎著『日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考』(1912年)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、あえてそれを排除し、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの見解もある。志田 (2009)、145–153頁。
- ^ 1914年(大正3年)9月に刊行された鷗外と小池正直の共著『衛生新編』(改訂増補第5版、上下2冊、全1,830頁)では、初めて「脚気」が記載された。ただし、当時脚気の原因をめぐって医学界が混乱していたこともあり、権威者の見解を列記しただけで、鷗外自らの見解を記述していない。山下 (2008)、421–422頁。以上が通説となりつつあるが実際には『衛生新編』において「脚気ノ単一ナル病ナルカ数多ノ原因ヲ有スル類症ノ総名ナルカハ疑問ニ属ス」(千七百八十一頁)との見解は示している。
- ^ 山下 (2008)、471–472、448頁。山下は、ビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世に対して安易に批判すべきではないとした。また、鷗外の医学面について書かれたものには錯誤が多く、基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識なしには問題の内容を正確に把握できず正しい論評はできないと述べている。
- ^ 後年、寺内は脚気病臨時調査会の第1回会合のあいさつで、自ら長年脚気を患い麦飯で治癒した経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝(ひれき)し、 〔日清戦争〕当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし
と発言した。
- ^ 松田(1990)は鷗外を中心とする陸軍関係者の態度を、東京大学の「不遜としか言いようのない思い上がり」と指摘している(106-107頁)
- ^ この見解については、保身や党派性を、医師としての公衆に対する義務より優先させたとの批判がある。志田 (2009)、179頁
- ^ この見方とは逆に、土岐頼徳からの「言葉巧みな側近の者にたぶらかされているのではないか」との上申(吉村、1994, 下巻 P.211)、「森の主張をコピーしたような批判を繰り返していた」(松田、1990, P.103)など、石黒の側が森に同調していたとの指摘は当時から現在まで存在する
- ^ アルトゥル・ショーペンハウアーによる独語版からの翻案。
- ^ 講談社学術文庫版(2019年)の題は『元号通覧』。
- ^ 「気性合わず、文筆活動の妨げ」 鷗外妻との関係文書 : 静岡(2012年9月14日 読売新聞))明治23年(1890年)10月6日付で、当時、佐世保鎮守府司令長官であった父親の赤松則良に対して、長男の赤松範一が鷗外と妹登志子夫婦の生活の実情を報告するために書いた手紙の下書きが見つかっている。鷗外が「私の気性として、日頃夫婦で遊歩することもなく、談話も好まない。文筆活動の妨げになるので、登志子とよく相談した」という趣旨の発言し、於菟については「別段牛乳にても無害」と言い、引き取った旨が記されていた。
- ^ NHK BSプレミアム(2014年7月23日放送)の『孫のナマエ〜鷗外パッパの命名騒動7日間』という、孫の命名に関するエピソードがドラマになった。ここで鷗外は「伯爵」などの「爵」ではなく、「雀」の「𣝣」から採ったとしている。この番組では鷗外を「キラキラネーム」の元祖としていた。
出典
- ^ "森鴎外". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2023年8月2日閲覧。
- ^ a b 秦 2005, p. 159, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-森林太郎(鷗外)
- ^ “作家 森鴎外(もりおうがい)(島根県津和野町生まれ)”. 山陰中央新報デジタル. (2015年2月11日). オリジナルの2020年8月11日時点におけるアーカイブ。 2018年7月11日閲覧。
- ^ 平川ら (1997a)、15頁。同書は、学生、作家、軍医、家庭人の側面から、鷗外の実像に迫った。
- ^ 『出典』 東京大学総合研究博物館 哺乳類学者 神谷敏郎 東京生まれ。 1930年3月2日- 2004年7月13日 教育学士 医学博士 青山学院大学文学部教育学科卒業 東京大学医学部卒業 東京大学大学院医学系研究科修了 1956年東京大学医学部助手 1971年東京大学医学部解剖学講師 1980年筑波大学医療技術短期大学部教授(解剖学) 1993年筑波大学名誉教授 幕末から明治初期における医学教育 東京大学医学部の源流 【参考文献】 細川宏「わが教室史—東京大学医学部解剖学教室」、『医学のあゆみ』第50巻1号、1964年、11—14頁。 石黒忠悳『懐旧九十年』、博文館、1963年。 石橋長英・小川鼎三『お雇い外国人(9)—医学』、鹿島研究所出版全、1969年。 神谷敏郎「鴎外の大学時代のノート」、『UP』、1996年、1—5頁。 小金井良精「東京帝国大学医科大学解剖学教室略誌」、『東京医学会創立二五年祝賀論文集』、1913年、7—27頁。 壬生町立歴史民俗資料館編『ジェンナー種痘発明二百年記念—種痘医斎藤玄昌』、栃木県壬生町立歴史民俗資料館、1996年。 森鴎外『ウィタ・セクスアリス』(岩波文庫)、岩波書店、1995年。 森於菟『父親としての森鴎外』(筑摩叢書159)、筑摩書房、1969年。 大沢謙二『燈影晶語』、永井潜編集私家版、1928年。 小川鼎三『医学の歴史』(中公新書)、中央公論社、1964年。 小川鼎三・酒井シズ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(東洋文庫386)、平凡社、1980年。 司馬遼太郎『胡蝶の夢』、新潮社、1979年。 津山直一「鴎外の整形外科学習(I)(II)」、『整形外科』第39巻1号、115—116頁、2号、277頁、1988年。 津山直一「鴎外の整形外科学習(III)」、『整形外科』第41巻、1990年、139—140頁。 東京大学医学部創立百年記念会『東京大学医学部百年史』、東京大学出版会、1967年。 東京帝国大学編『東京帝国大学五十年史』、東京帝国大学、1932年。 東京大学総合図書館『東京大学総合図書館古医学書目録』、日本古医学資料センター、1978年 [1]
- ^ 旧制高等学校に相当。本科を含めて現在の東京大学医学部の前身。
- ^ 明治7年度は15歳以下の入学が見合わされており、明治8年度は入学年齢制限が16 - 20歳に引き上げられた。平川ら (1997a)、129–134頁
- ^ a b 平川ら (1997a)、129–134頁
- ^ 平川ら (1997a)、112-118、142頁。
- ^ a b 山﨑(2007)、38頁。
- ^ 小金井 (1999)、35–37, 39頁。
- ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』(博文館、1936年)241頁※ページ番号記載なし
- ^ a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』(博文館、1936年)242頁※ページ番号記載なし
- ^ 小堀 (1981)、195-196頁。
- ^ 『早稲田大学百年史』第3編P1040
- ^ 池内(2001)、67頁
- ^ 「鷗外漁史とは誰ぞ」(文壇時評)、「原田直次郎」(日本の近代西洋絵画)、「潦休録」(近代芸術)、「我をして九州の富人たらしめば」(社会問題)、「北清事件の一面の観察」(講演録)、「新社会合評」(矢野竜渓『新社会』の評論で社会主義などを記述)(池内 (2001)、73-92頁)。
- ^ 山﨑 (2007)、837頁。新関 (2008)、180頁。
- ^ 森鷗外 (2000)、「文芸の主義」138–140頁。初出1911年4月。
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- ^ 谷沢永一『文豪たちの大喧嘩』、34-35頁
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- ^ 小林勇『蝸牛庵訪問記』 岩波書店、1956年/筑摩書房「著作集」、1983年/講談社文芸文庫、1991年
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- ^ 岩波文庫、1981年。他に小堀杏奴『不遇の人 鷗外』求龍堂、1982年。がある
- ^ 『弊風一班 畜妾の実例』黒岩涙香、現代教養文庫、社会思想社、1992年、p14
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- ^ 森鷗外と鷗外荘(2018年9月12日閲覧)。
- ^ “森鷗外ゆかりの上野の老舗旅館、閉館へ 新型コロナでキャンセル相次ぐ”. 東京新聞. (2020年3月28日) 2022年2月23日閲覧。
- ^ “台東の旅館 「鷗外荘」あす再び閉館 「舞姫」執筆 旧邸は移築を検討 5月に営業再開も…コロナ禍で客足戻らず”. 東京新聞. (2021年10月14日) 2022年2月23日閲覧。
- ^ 浜崎陽介「鷗外の旧邸 なんとか存続」中日新聞 2022年10月13日、夕刊、8面。
- ^ a b 森鷗外・夏目漱石住宅 - 博物館明治村(2022年2月23日閲覧)
- ^ a b c d e “記念館について”. 文京区立森鷗外記念館. 2022年10月12日閲覧。
- ^ 嵐山 2000
- ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。
- ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年pp.14-23)。
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