本覚思想と日本仏教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 13:52 UTC 版)
上述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性を具えている(本来、覚っている)が、生まれ育つと次第に世間の煩悩に塗(まみ)れていき、自分が仏と同じ存在であることがわからなくなる、ということである。もちろん、これは無明と共に輪廻が始まるとする釈迦の教説とは全く相反するものである。 しかし、この本覚思想は、時代を経ると後々に他の教理と関連付けられ、新たな解釈を生むことになる。すなわち、人間は誰もが悟っているのだから修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、凡夫は凡夫のままでよい、などという急進的な解釈がされるようになった。これは、最澄撰である(偽撰との説もある)『末法燈明記』の「末法には、ただ名字(みょうじ)の比丘のみあり。この名字を世の真宝となして、さらに福田なし。末法の中に持戒の者有るも、すでにこれ怪異なり。市に虎有るが如し。これ誰か信ずべきや」がよく引用されるようになったことに由来すると考えられている。 鎌倉仏教と天台本覚思想との関連については、鎌倉仏教が天台本覚思想を否定することによって成立したという見方がごく近年になって、新奇な注目を浴びるようになった。しかし、これは、伝統的見方ではない。これらは、主にいわゆる奈良仏教学派よりの鎌倉仏教への遅すぎた反撃ともいえるものである。。伝統的には、鎌倉仏教は天台本覚思想の発展とする考え方であり、従来から、島地大等や宇井伯寿ら仏教学者によっても唱えられている。とくに島地は、日本には「哲学」がないと説いた中江兆民に対して、「哲学なき国家は精神なき死骸である」と述べて批判し、日本独自の「哲学」を代表するものとして本覚思想を掲げている。
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