鎌倉党との抗争と石橋山の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 08:37 UTC 版)
「中村氏 (相模国)」の記事における「鎌倉党との抗争と石橋山の戦い」の解説
詳細は「石橋山の戦い」を参照 中村宗平は父が鎌倉権五郎景正に討たれたゆえんか、鎌倉党を敵対勢力と見なしていたようで[要出典]、天養元年(1144年)の源義朝の大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。 治承4年(1180年)に、義朝の息子の源頼朝が挙兵すると宗平も、これに参加し、一族を引き連れて北条、加藤、天野、佐々木の諸氏と共に山木館襲撃に参加している。 その後、頼朝勢は石橋山に進撃し、石橋山の戦いが始まるが、これを迎え撃った平家方の大将は鎌倉党の大庭景親であり、その許には梶原、俣野、長尾と言った鎌倉氏の一族が多数馳せ参じていた。他方、頼朝勢には、宗平嫡孫の中村景平・盛平兄弟(中村重平の子)、土肥実平親子、土屋宗遠親子、岡崎義実・佐奈田義忠親子と言った中村党の面々が多数参加していた(ちなみに、宗平自身は老齢が理由か[要出典]、直接は参戦していない)。この内、岡崎親子は三浦党の人物だが、上記の姻戚関係などからすると実質的には中村党の人物と言った方が近い(岡崎氏の諸氏は、後に土屋・土肥の諸氏と共に活動していることが多い)。 他にも、頼朝勢には、佐々木、北条と言った多数の諸氏が加わっていたが、実質的には中村党が中枢を占めていた。頼朝が本陣を置いたのが土肥実平の所領であり、石橋山の戦いは見方次第では中村党と鎌倉党の戦いとも見て取れる[要出典]。なお、平家方には縁戚である伊東祐親一族も参加しており、同族同士の戦いの側面もある。 戦いは頼朝勢の大敗に終わり、多くの中村党の人物が討死した。佐奈田義忠の戦死は余りにも有名だが、土屋宗遠の子・忠光も討ち死にしており、中村景平・盛平兄弟も後に記録に見えないことから、この時に討死にした可能性が高い[要出典]。北条時政の長男・宗時も後に討死にしているが、彼は宗平の曾孫である。 土肥実平は敗走する頼朝に付き従って安房国に落ち延びているが、その間のやりとりが、『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]、『源平盛衰記』[要文献特定詳細情報]に記載されている。
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