鎌倉党の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 02:04 UTC 版)
景正の死後の鎌倉党の系図は諸説あるが、一説としては次の通りである。(『系図纂要』および『桓武平氏諸流系図』を主とする) 景正の嫡子の鎌倉景継が跡を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息子景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した。また、景正の子景秀の孫の家政は高座郡香川郷にて香川氏を称し、景経の息子の景縄は古屋氏(降矢氏)を称した。景正の叔父の系統では、景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。もう一人の叔父である景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。また金井氏が鎌倉郡金井(横浜市栄区金井)にいた。このようにして鎌倉郡周辺に盤踞する武士団鎌倉党が形成されたのである。なお、鎌倉党の一族は名前におおむね「景」の字が用いられている。
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