鎌倉党の落日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 02:04 UTC 版)
本来は景正ののち大庭御厨の下司職を継承した景継の子である長江義景が嫡流であったと思われるが、庶流の大庭景宗にその地位を奪われ、その景宗も天養元年(1144年)に起こった源義朝の大庭御厨濫行事件を契機に義朝への服属を余儀なくされた。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、一族は源平双方に二分され、その結果、平家に味方した大庭景親・俣野景久は没落した。他方、平家に属した梶原・長尾氏も御家人として存続することを許されたが、組織としての鎌倉党は解消していった。ただし、『吾妻鏡』では、和田合戦に参加した梶原・大庭等の諸氏を「鎌倉党の人々」として記載している。
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