鎌倉公方への反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/04 09:03 UTC 版)
氏満の孫である足利持氏が第4代鎌倉公方に就任してまもない頃を狙ったのであろうか、応永18年(1411年)10月、満重は持氏に叛して兵を挙げた。これに対し持氏は当初、小山満泰(持政の父)を討伐軍として派遣したが、満重はこれを撃退することに成功する。 その後の同23年(1416年)の上杉禅秀の乱でも鎌倉公方への反抗姿勢を崩さず、禅秀側に与したが、敗北して降伏。しかし戦後に持氏から所領の大部分を没収されたことを恨んだ満重は、同25年(1418年)、同29年(1422年)と再度持氏への反乱を起こす。後者では宇都宮持綱・桃井宣義・佐々木基清らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし反乱の長期化・強大化を懸念した持氏が翌応永30年(1423年)に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して満重も居城の小栗城で自刃して果てた(小栗満重の乱)。一説には満重ただ一人脱出し三河に逃れて生き延びたともいわれる。 遺子(一説に弟とも)の小栗助重(すけしげ)は、持氏の死後に起きた結城合戦で戦功を挙げて旧領への復帰を許されたが、康正元年(1455年)、享徳の乱の最中で第5代鎌倉公方・足利成氏(持氏の子)の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨荘(現在の茨城県筑西市)を失ってしまい、その後は出家して宗湛と号して、8代将軍・足利義政の絵師として活躍した。
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