鎌倉公方への謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:51 UTC 版)
時高が生まれた年に父が上杉禅秀の乱に加担したため、鎌倉公方・足利持氏によって相模守護を免ぜられる。時高は持氏に仕え永享元年(1429年)に相模守護に任じられたとも言われているが、異説もある。 永享10年(1438年)、持氏は関東管領・上杉憲実討伐のために武蔵高安寺に入り、時高は鎌倉府の留守を命じられた。ところが、室町幕府6代将軍・足利義教が持氏討伐を命じると、そのまま幕府軍迎撃のために箱根山に向かった持氏を横目に時高は上杉氏と結んで叛旗を翻し、三浦半島から軍を引き入れて鎌倉を占領して足利持氏・義久父子を自害に追い込んだ(永享の乱)。 永享の乱以後、時高は扇谷上杉家に従って事実上の相模国主となる。時高は扇谷上杉家の当主である上杉持朝の信頼を受け、相模西部の大森氏頼と時高の姉妹の間に生まれた娘(時高には姪)を持朝の次男高救に娶わせて婿養子とし、その間に生まれた義同(つまり時高から見れば姪孫)もまた養子とした。
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