鎌倉勢とは? わかりやすく解説

鎌倉勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 16:39 UTC 版)

義経 (小説)」の記事における「鎌倉勢」の解説

源義経 本作主人公源氏棟梁源義朝の九男。幼名は「牛若」で、生後ほどなく平治の乱によって父を喪い、生母常盤再縁した藤原氏支流一条長成養育された。やがて疎まれ洛北鞍馬寺入れられ遮那王」の名で寺稚児となるものの、亡父遺臣であった鎌田正近とめぐり遭い源家御曹司であることを知らされる以後源氏再興平氏への復讐とを胸に成長し長じて後に京を出て各地放浪した末に白河の関越えて奥州へと流れ奥州藤原氏庇護受けた。兄の頼朝以仁王の令旨得て決起したことを知るや奥州飛び出して帷幕参じ、鎌倉勢の一翼を担うこととなる。 それまで個々武者ぶつかり合いでしかなかった合戦部隊という集団同士戦い解釈し、また騎兵部隊機動力活かした奇襲戦術編み出し古今無類大戦果を挙げて敵味方を共に瞠若せしめた。しかし優れた軍才を持ちながら政治感覚別人のように稚く武士としての美意識骨肉の情・源氏平氏といった情緒的な図式をもってしか世を見ることができず、世の中利害動いているということがまるでわからないとはいえ小柄な体躯象徴される如くそうした大人になりそこねたような危うく儚げ雰囲気が人を惹きつけ、放っておけないと思わせる魅力ともなっている。その一方で度を越した色好みであり、壇ノ浦の戦勝の後はまがりなりにも国母であった建礼門院通じ降したばかりの平氏の娘を室に入れるなどその好色に見境というものがない一ノ谷屋島・壇ノ浦の戦い天才的な軍略振るって敵軍鮮やかに討ち破り不倶戴天の仇であった平氏滅亡追い込んだ。しかし頼朝による朝廷干渉排し独立政権構想理解できず、老獪な後白河法皇簡単に籠絡されてさながらその走狗となり、兄の怒り買ってついに討伐されることとなる。 源頼朝 義経異母兄義朝三男兵衛佐官位から「佐殿」(すけどの)と通称される。幼少の頃から義朝正嫡として目をかけられるものの、数え十三源氏敗亡遭い死罪は免ぜられたものの伊豆流される以後慎ましく観経繰り返すのような日々送っていたが、平氏への復仇忘れずに静かに機会待ち続けていた。以仁王の令旨下されたことによりついに決起し坂東武士達を自らの足下糾合することに成功して平氏打倒一大勢力形成した奥州から帷幕参じた義経当初好意的に迎えながらも、無垢な人柄によって諸兵を惹きつけるその人気を危惧し、自らの政治的地位脅かしかねぬ存在として警戒し続けた。 およそ二十年渡って東国流人の生活送った経験から、坂東土豪の自らの開墾した土地私有できない憤りと、武家政権ありながら藤原摂関政治真似るばかりの平氏政権への苛立ち的確に理解し中央から隔絶した独立政権樹立標榜して鮮やかに坂東武士の心を掴んだ。しかし指導者に推戴されながらも決し慢心はせず、自らが絶対権力者でなく坂東武士担がれ盟主過ぎぬことを厳しく自戒している。その政治感覚天性のものであり、生まれながら政治家ともいうべき卓抜した才覚備えている。 朝廷との巧み駆け引きによって東国支配公認させ、後の鎌倉幕府発展する政権基礎築いた。にもかかわらず朝廷から官位もらって喜ぶ義経浅慮呆れ果て神秘的なまでの軍才に対す畏怖もあってついに討伐令を出し、その首を討たせた。 北条政子 頼朝正室伊豆大名主北条氏当主である北条時政娘。英気溌剌と湛える聡明な女性で、絢爛武者譚を好むなど男勝り胆力もある。頼朝とは良き相談相手として艱苦分かち合い妬心激しく悋気抑えられずに夫の妾宅破壊することもあったものの、糟糠の妻として政権創業助けた義経に対して頼朝旗揚げ成功と共ににわかに現れたその存在快く思わず、夫の立場揺るがしかねないこの義弟を常に危険視続け頼朝にも肉親の情にほだされぬよう折にふれて諫言した。 武蔵坊弁慶 義経の一の郎党紀伊国熊野別当庶子として生まれるも豪放な気性から乱を好み叡山僧兵中に身を投じた奥州藤原氏庇護にあった義経平氏様子窺うために京に出向いた際に邂逅し、義経頼朝帷幕に入るや噂を聞いて鎌倉駆けつけ以降股肱の臣として仕えた身の丈六尺超える巨漢で、余人及ばぬ剛力持ち主とはいえ粗豪なだけではなく世間知にも長けた知恵者でもあり、世間知らず義経何かにつけ知恵貸した。しかし、卓抜した知慧で頼朝佐治した大江広元のように政治参謀務まるほどの才覚は到底持ち合わせていない。 梶原景時 頼朝腹心侍所の司(陸海軍省の次官)を務め鎌倉政権重鎮頼朝決起直後石橋山の戦い敗走した際に命を救った経緯から、頼朝信頼篤い頼朝はその老巧人物を買い、京へ義仲討伐の軍を進発させるに及んで義経つきの軍監任ずるが、伝来兵法平然と無視する義経不快に思い、たびたび反発した義経の方も景時の固陋さを嫌い、両者ことあるごとに対立したもとより文藻がある上に戦場での観察力優れ当時としては詳細かつ客観的な戦闘報告書をしたためることで頼朝評価高かった。が、手柄独り占めにするかのような記述をする悪癖があり、殊に義経活躍極力書かず頼朝義経対す不信感増大させた。 大江広元 頼朝謀臣元来は京の下級貴族出身であったが、栄達望めぬ自らの前途見切りをつけて鎌倉下り頼朝仕えた頼朝千里の先までも見通んばかり深謀高く評価し無二の補佐役として身辺近侍させた。政所初代別当に任ぜられて辣腕振るい、後の鎌倉幕府行政機構創建大きく貢献した

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鎌倉勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 06:21 UTC 版)

遮那王義経」の記事における「鎌倉勢」の解説

源頼朝 源義朝三男長兄の義平、次兄朝長は既に平治の乱混乱死亡しているため、彼が現在の源氏棟梁である。通称官職名右兵衛権佐から佐殿(すけどの)。 平治の乱参加していたため、頼朝死罪となるはずであった。だが、頼朝の顔が若き日亡くなった自らの息子家盛にそっくりであったため、清盛義母池禅尼必死助命嘆願し、死は免れ伊豆国蛭ヶ小島流罪となった。 しかし、僅か14歳で父や兄を一度失った上に流罪となってしまった頼朝は、生きる希望失って父達を供養するための経を読むだけの日々送っていたが、監視役伊東祐親の娘八重通じて千鶴丸という子供為すなど、徐々に生きる喜びを知るようになる。しかし、娘が謀反人との間に子供作った事による平家逆鱗恐れた伊東祐親は、一族を守るために涙を飲んで千鶴丸殺してしまう。頼朝は、自分の子供を救えなかった己の不甲斐なさ、そして平家支配する世の恨みから、平家打倒を心に誓い以後難し兵法書読みあさる毎日を送る。 義経とは鞍馬寺出て奥州に行く途中で出会った義経出会った当初は非常にだらしない姿を見せていたが、それは演技であり、義経は、僅かなヒントから頼朝演技を見破り頼朝義経優秀さ認めた平家打倒のため、あらゆる兵法書通じ有事の際に備えて先祖伝来の鎧と太刀を常に手入れしている。しかし、常に平家監視下に置かれていたことから、武芸稽古は全く行っていない。 その後平家方の北条時政の娘・北条政子結婚、そして時政と共に平家打倒挙兵するも、石橋山の戦い敗北。命の危機瀕する梶原景時助けられ上総逃れ再起図り勢力盛り返して富士川の戦い勝利。この戦いの後義経との再会を果たす。 その後はしばらく東国平定に力を注ぎ木曽義仲倶利伽羅峠の戦い平家打ち破り入京ようとすると、義経送り込み様子を探る。そして義仲後白河法皇から強引に頼朝追討令を出させると、範頼・義経総大将として派遣して宇治川の戦い勝利するなど徐々に全国勢力伸ばしていった。 情に厚い性格だったが、自らの勢力強大になっていくにつれて、それを守るために時には非情な決断下すようになっていく。だが、次第保身のために少しでも災いの元となる者を容赦無く処断するなど、娘の大姫から「鬼」と呼ばれるほど冷酷な性格染まっていく。義経偽者だったと知ると自分欺いていたことに激怒し、さらに源氏ではない者が平家滅ぼしたことで鎌倉揺れることを恐れて偽者だったことを隠し表向き史実通り理由義経追放した後すぐさま追手掛けたその後義経静御前との間に生まれた子供千鶴丸同じよう殺してしまい、それが原因政子から憎悪されるほどの確執生まれる。 義経(漂太に成り済まし偽者)の死後奥州藤原氏滅ぼし奥州合戦)、後白河法皇から征夷大将軍の位を得て日本治め頂点に立つも、その七年後の相模川での橋供養からの帰路で、政子放った刺客達に毒が入った飲んで衰弱したところを胸を刺され最期を遂げる。この暗殺刺客達落馬した時に悪くが胸に刺さった事故として闇に葬られる北条政子 現在、頼朝監視務めている北条家北条時政娘。当初誤った噂話信じていたため、頼朝極悪人思っていた。しかし、いざ実物見てみると容姿端麗頼朝一目惚れし、さらに噂は誤りであったどころか優しい性根持ち主知って完全に惚れることとなる。 しかし、平家追討果たした後、源氏勢力拡大維持するために兄弟ですら切り捨てる冷徹な決断を行う頼朝迷い深めていく。義経偽者判明した後も彼を庇い、後に捕らわれて送られてきた静にも親身に接していた。そして、義経静御前の子供を殺したことによって、激し後悔憎悪を抱くようになる頼朝暗殺後、子の頼家父の死を悲しむよりも自身立場を心配し頼朝と同じ「鬼」の一面垣間見たことにより、なおも源氏根絶やし目論んでいる。 源範頼 陸奥守藤原範季の甥・範光と名乗り平泉来訪義経似顔絵描いて平泉義経探し当初清盛からの刺客疑われたが、正体源義朝の六男で、頼朝義経異母兄弟8歳時に父・義朝失いその後は範季の元で育てられる公家育ちだが源氏の血を大切にし、過去養母揉めたものの武芸鍛錬忘れていない。父の形見である懐剣大切にしている。義経打倒平家誓い合う。源平合戦編では義経先んじて頼朝元に駆けつける源頼家 頼朝嫡男頼朝暗殺後父の死を悲しむよりも自身立場を心配するとともに、自らが源氏嫡男として権力握れる事を喜ぶかのような表情をし、頼朝と同じ「鬼」の一面垣間見せたことにより、母の政子から「鬼」「おぞましい」と嫌悪される。 那須与一 源氏武者平家都落ちの後に登場蓮華王院三十三間堂)にて平維盛捕縛協力建物を傷つけることなく三十三間の距離にいる維盛に矢を命中させるなど絶妙な技術見せる。弓使いにとって無防備な右側に近寄られることを嫌う。 梶原景時 石橋山の合戦では平家方の武将だったが、敵の頼朝見逃し命を救った恩人でもある。景季から義経紹介されたが、義経のことを源氏の名を利用した偽者ではないか疑っており、また義経頼朝引き合わせず平氏追い払った義経の手柄をも横取りする。またその後も功に焦り義経先を越され面目を失い激昂する姿や、狭量さから後の没落匂わせている。 梶原景季時の息子斥候として出ていた時に平家方に襲われたが、義経達に助けられる。父景時と義経一行引き合わせる疑っている父とは違い自身純朴で、義経達の技量素直に尊敬している。義経の事を頼朝伝えるべきではと景時に進言するも、断られてしまう。

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