鎌倉勢
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源義経 本作の主人公。源氏の棟梁・源義朝の九男。幼名は「牛若」で、生後ほどなく平治の乱によって父を喪い、生母の常盤が再縁した藤原氏支流の一条長成に養育された。やがて疎まれて洛北の鞍馬寺に入れられ「遮那王」の名で寺稚児となるものの、亡父の遺臣であった鎌田正近とめぐり遭い、源家の御曹司であることを知らされる。以後は源氏の再興と平氏への復讐とを胸に成長し、長じて後に京を出て各地を放浪した末に白河の関を越えて奥州へと流れ、奥州藤原氏の庇護を受けた。兄の頼朝が以仁王の令旨を得て決起したことを知るや奥州を飛び出して帷幕に参じ、鎌倉勢の一翼を担うこととなる。 それまで個々の武者のぶつかり合いでしかなかった合戦を部隊という集団同士の戦いと解釈し、また騎兵部隊の機動力を活かした奇襲戦術を編み出し、古今無類の大戦果を挙げて敵味方を共に瞠若せしめた。しかし優れた軍才を持ちながら政治感覚は別人のように稚く、武士としての美意識・骨肉の情・源氏対平氏といった情緒的な図式をもってしか世を見ることができず、世の中が利害で動いているということがまるでわからない。とはいえ小柄な体躯に象徴される如く、そうした大人になりそこねたような危うく儚げな雰囲気が人を惹きつけ、放っておけないと思わせる魅力ともなっている。その一方で度を越した色好みであり、壇ノ浦の戦勝の後はまがりなりにも国母であった建礼門院と通じ、降したばかりの平氏の娘を室に入れるなどその好色には見境というものがない。 一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦いで天才的な軍略を振るって敵軍を鮮やかに討ち破り、不倶戴天の仇であった平氏を滅亡に追い込んだ。しかし頼朝による朝廷の干渉を排した独立政権の構想を理解できず、老獪な後白河法皇に簡単に籠絡されてさながらその走狗となり、兄の怒りを買ってついに討伐されることとなる。 源頼朝 義経の異母兄。義朝の三男。兵衛佐の官位から「佐殿」(すけどの)と通称される。幼少の頃から義朝に正嫡として目をかけられるものの、数え十三で源氏の敗亡に遭い、死罪は免ぜられたものの伊豆に流される。以後は慎ましく観経を繰り返す僧のような日々を送っていたが、平氏への復仇を忘れずに静かに機会を待ち続けていた。以仁王の令旨が下されたことによりついに決起し、坂東武士達を自らの足下に糾合することに成功して、平氏打倒の一大勢力を形成した。奥州から帷幕に参じた義経を当初は好意的に迎えながらも、無垢な人柄によって諸兵を惹きつけるその人気を危惧し、自らの政治的地位を脅かしかねぬ存在として警戒し続けた。 およそ二十年に渡って東国で流人の生活を送った経験から、坂東の土豪の自らの開墾した土地を私有できない憤りと、武家政権でありながら藤原摂関政治を真似るばかりの平氏政権への苛立ちを的確に理解し、中央から隔絶した独立政権の樹立を標榜して鮮やかに坂東武士の心を掴んだ。しかし指導者に推戴されながらも決して慢心はせず、自らが絶対の権力者でなく坂東武士に担がれた盟主に過ぎぬことを厳しく自戒している。その政治感覚は天性のものであり、生まれながらの政治家ともいうべき卓抜した才覚を備えている。 朝廷との巧みな駆け引きによって東国の支配を公認させ、後の鎌倉幕府に発展する政権の基礎を築いた。にもかかわらず朝廷から官位をもらって喜ぶ義経の浅慮に呆れ果て、神秘的なまでの軍才に対する畏怖もあってついに討伐令を出し、その首を討たせた。 北条政子 頼朝の正室。伊豆の大名主・北条氏の当主である北条時政の娘。英気を溌剌と湛える聡明な女性で、絢爛な武者譚を好むなど男勝りの胆力もある。頼朝とは良き相談相手として艱苦を分かち合い、妬心が激しく悋気を抑えられずに夫の妾宅を破壊することもあったものの、糟糠の妻として政権の創業を助けた。 義経に対しては頼朝の旗揚げの成功と共ににわかに現れたその存在を快く思わず、夫の立場を揺るがしかねないこの義弟を常に危険視し続け、頼朝にも肉親の情にほだされぬよう折にふれて諫言した。 武蔵坊弁慶 義経の一の郎党。紀伊国熊野別当の庶子として生まれるも豪放な気性から乱を好み、叡山の僧兵の中に身を投じた。奥州藤原氏の庇護下にあった義経が平氏の様子を窺うために京に出向いた際に邂逅し、義経が頼朝の帷幕に入るや噂を聞いて鎌倉に駆けつけ、以降は股肱の臣として仕えた。身の丈六尺を超える巨漢で、余人の及ばぬ剛力の持ち主。とはいえ粗豪なだけではなく世間知にも長けた知恵者でもあり、世間知らずの義経に何かにつけて知恵を貸した。しかし、卓抜した知慧で頼朝を佐治した大江広元のように政治参謀が務まるほどの才覚は到底持ち合わせていない。 梶原景時 頼朝の腹心。侍所の司(陸海軍省の次官)を務める鎌倉政権の重鎮。頼朝が決起直後の石橋山の戦いで敗走した際に命を救った経緯から、頼朝の信頼が篤い。頼朝はその老巧な人物を買い、京へ義仲討伐の軍を進発させるに及んで義経つきの軍監に任ずるが、伝来の兵法を平然と無視する義経を不快に思い、たびたび反発した。義経の方も景時の固陋さを嫌い、両者はことあるごとに対立した。 もとより文藻がある上に戦場での観察力に優れ、当時としては詳細かつ客観的な戦闘報告書をしたためることで頼朝の評価が高かった。が、手柄を独り占めにするかのような記述をする悪癖があり、殊に義経の活躍は極力書かず、頼朝の義経に対する不信感を増大させた。 大江広元 頼朝の謀臣。元来は京の下級貴族の出身であったが、栄達を望めぬ自らの前途に見切りをつけて鎌倉に下り、頼朝に仕えた。 頼朝は千里の先までも見通さんばかりの深謀を高く評価し、無二の補佐役として身辺に近侍させた。政所の初代別当に任ぜられて辣腕を振るい、後の鎌倉幕府の行政機構の創建に大きく貢献した。
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鎌倉勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 06:21 UTC 版)
源頼朝 源義朝の三男。長兄の義平、次兄の朝長は既に平治の乱の混乱で死亡しているため、彼が現在の源氏の棟梁である。通称は官職名の右兵衛権佐から佐殿(すけどの)。 平治の乱に参加していたため、頼朝も死罪となるはずであった。だが、頼朝の顔が若き日に亡くなった自らの息子家盛にそっくりであったため、清盛の義母池禅尼が必死の助命嘆願し、死は免れ伊豆国の蛭ヶ小島に流罪となった。 しかし、僅か14歳で父や兄を一度に失った上に流罪となってしまった頼朝は、生きる希望を失って父達を供養するための経を読むだけの日々を送っていたが、監視役の伊東祐親の娘八重と通じて千鶴丸という子供を為すなど、徐々に生きる喜びを知るようになる。しかし、娘が謀反人との間に子供を作った事による平家の逆鱗を恐れた伊東祐親は、一族を守るために涙を飲んで、千鶴丸を殺してしまう。頼朝は、自分の子供を救えなかった己の不甲斐なさ、そして平家が支配する世の恨みから、平家打倒を心に誓い、以後は難しい兵法書を読みあさる毎日を送る。 義経とは鞍馬寺を出て奥州に行く途中で出会った。義経と出会った当初は非常にだらしない姿を見せていたが、それは演技であり、義経は、僅かなヒントから頼朝の演技を見破り、頼朝も義経の優秀さを認めた。 平家打倒のため、あらゆる兵法書に通じ、有事の際に備えて先祖伝来の鎧と太刀を常に手入れしている。しかし、常に平家の監視下に置かれていたことから、武芸の稽古は全く行っていない。 その後、平家方の北条時政の娘・北条政子と結婚、そして時政らと共に平家打倒へ挙兵するも、石橋山の戦いで敗北。命の危機に瀕するも梶原景時に助けられ、上総に逃れ再起を図り、勢力を盛り返して富士川の戦いに勝利。この戦いの後に義経との再会を果たす。 その後はしばらく東国の平定に力を注ぎ、木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで平家を打ち破り入京しようとすると、義経を送り込み様子を探る。そして義仲が後白河法皇から強引に頼朝追討令を出させると、範頼・義経を総大将として派遣して宇治川の戦いで勝利するなど徐々に全国に勢力を伸ばしていった。 情に厚い性格だったが、自らの勢力が強大になっていくにつれて、それを守るために時には非情な決断を下すようになっていく。だが、次第に保身のために少しでも災いの元となる者を容赦無く処断するなど、娘の大姫から「鬼」と呼ばれるほど冷酷な性格に染まっていく。義経が偽者だったと知ると自分を欺いていたことに激怒し、さらに源氏ではない者が平家を滅ぼしたことで鎌倉が揺れることを恐れて偽者だったことを隠し、表向きは史実通りの理由で義経を追放した後すぐさま追手を掛けた。その後、義経と静御前との間に生まれた子供を千鶴丸と同じように殺してしまい、それが原因で政子から憎悪されるほどの確執が生まれる。 義経(漂太に成り済ました偽者)の死後、奥州藤原氏を滅ぼし(奥州合戦)、後白河法皇から征夷大将軍の位を得て日本を治める頂点に立つも、その七年後の相模川での橋供養からの帰路で、政子が放った刺客達に毒が入った水を飲んで衰弱したところを胸を刺されて最期を遂げる。この暗殺は刺客達に落馬した時に運悪く枝が胸に刺さった事故として闇に葬られる。 北条政子 現在、頼朝の監視を務めている北条家の北条時政の娘。当初は誤った噂話を信じていたため、頼朝を極悪人と思っていた。しかし、いざ実物を見てみると容姿端麗な頼朝に一目惚れし、さらに噂は誤りであったどころか優しい性根の持ち主と知って完全に惚れることとなる。 しかし、平家追討を果たした後、源氏の勢力を拡大・維持するために兄弟ですら切り捨てる冷徹な決断を行う頼朝に迷いを深めていく。義経が偽者と判明した後も彼を庇い、後に捕らわれて送られてきた静にも親身に接していた。そして、義経と静御前の子供を殺したことによって、激しい後悔と憎悪を抱くようになる。 頼朝の暗殺後、子の頼家が父の死を悲しむよりも自身の立場を心配し、頼朝と同じ「鬼」の一面を垣間見たことにより、なおも源氏の根絶やしを目論んでいる。 源範頼 陸奥守藤原範季の甥・範光と名乗り、平泉に来訪。義経の似顔絵を描いて平泉で義経を探し、当初は清盛からの刺客と疑われたが、正体は源義朝の六男で、頼朝と義経の異母兄弟。8歳の時に父・義朝を失い、その後は範季の元で育てられる。公家育ちだが源氏の血を大切にし、過去に養母と揉めたものの武芸の鍛錬を忘れていない。父の形見である懐剣を大切にしている。義経と打倒平家を誓い合う。源平合戦編では義経に先んじて頼朝の元に駆けつける。 源頼家 頼朝の嫡男。 頼朝の暗殺後、父の死を悲しむよりも自身の立場を心配するとともに、自らが源氏の嫡男として権力を握れる事を喜ぶかのような表情をし、頼朝と同じ「鬼」の一面を垣間見せたことにより、母の政子から「鬼」「おぞましい」と嫌悪される。 那須与一 源氏の武者。平家都落ちの後に登場。蓮華王院(三十三間堂)にて平維盛捕縛に協力。建物を傷つけることなく三十三間の距離にいる維盛に矢を命中させるなど絶妙な技術を見せる。弓使いにとって無防備な右側に近寄られることを嫌う。 梶原景時 石橋山の合戦では平家方の武将だったが、敵の頼朝を見逃し命を救った恩人でもある。景季から義経を紹介されたが、義経のことを源氏の名を利用した偽者ではないかと疑っており、また義経を頼朝と引き合わせず、平氏を追い払った義経の手柄をも横取りする。またその後も功に焦り義経に先を越され、面目を失い激昂する姿や、狭量さから後の没落を匂わせている。 梶原景季 景時の息子。斥候として出ていた時に平家方に襲われたが、義経達に助けられる。父景時と義経一行を引き合わせる。疑っている父とは違い彼自身は純朴で、義経達の技量を素直に尊敬している。義経の事を頼朝に伝えるべきではと景時に進言するも、断られてしまう。
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