平家都落ちとは? わかりやすく解説

平家都落ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:43 UTC 版)

平盛俊」の記事における「平家都落ち」の解説

寿永2年1183年7月25日宗盛一門引き連れて京都退去し福原から海路西へ落ち延びる目指す先は九州大宰府だった。この直後8月8日薩摩国島津荘留守所現地荘官である伴信明が訴状提出しているが、その訴状には「前越中守平」、すなわち盛俊の名と花押記されている(『平安遺文』4101)。盛俊は筑前宗像社の知行にも携わっており(『鎌倉遺文256)、本隊より一足先に現地下向して在地武士の糾合動いていたとも考えられる。しかし豊後臼杵肥後菊池形勢観望して動かず宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地情勢厳しいものだった平氏緒方惟栄攻撃10月には九州の地を追われ、再び海上を漂うことになった九州追われ平氏は、四国上陸して屋島新たな本拠地とした。東の屋島、西の彦島押さえて瀬戸内海制海権掌握したことで、寿永3年1184年)の正月には福原前線基地設けて都を伺うまでに勢力回復した(『百錬抄正月8日条)。

※この「平家都落ち」の解説は、「平盛俊」の解説の一部です。
「平家都落ち」を含む「平盛俊」の記事については、「平盛俊」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「平家都落ち」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平家都落ち」の関連用語

平家都落ちのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平家都落ちのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの平盛俊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS