平家都落ち
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寿永2年(1183年)7月25日、宗盛は一門を引き連れて京都を退去し、福原から海路を西へ落ち延びる。目指す先は九州の大宰府だった。この直後の8月8日、薩摩国島津荘の留守所に現地の荘官である伴信明が訴状を提出しているが、その訴状には「前越中守平」、すなわち盛俊の名と花押が記されている(『平安遺文』4101)。盛俊は筑前の宗像社の知行にも携わっており(『鎌倉遺文』256)、本隊より一足先に現地に下向して在地武士の糾合に動いていたとも考えられる。しかし豊後の臼杵、肥後の菊池は形勢を観望して動かず、宇佐神宮との提携にも失敗するなど現地の情勢は厳しいものだった。平氏は緒方惟栄の攻撃で10月には九州の地を追われ、再び海上を漂うことになった。九州を追われた平氏は、四国に上陸して屋島を新たな本拠地とした。東の屋島、西の彦島を押さえて瀬戸内海の制海権を掌握したことで、寿永3年(1184年)の正月には福原に前線基地を設けて都を伺うまでに勢力を回復した(『百錬抄』正月8日条)。
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