池氏
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- ^ 岡野友彦「池大納言家領の伝領と関東祗候廷臣」『中世久我家と久我領荘園』第三章
- ^ 頼章、頼定兄弟が弥彦神社の神官であったとの史料(『新潟県史 資料編5』2808号)は後代の偽文書とされているが、弥彦神社の神官池氏の史料は他にもあり、一族のうち神官を務めていたものがいたのは確実とみられている。
- ^ a b 『分水町史 通史編』中世第二章「鎌倉時代の分水町周辺」164頁
- ^ 嘉暦3年(1328年)9月、幕府により越後国奥山庄の所領相論の使者とされた池駿河七郎大夫と同一人物と考えられている(『新津市史 通史編 上巻』)
- ^ 『分水町史 通史編』中世第四章「戦国時代」190頁
- ^ 『松浦市史』松浦市史編纂委員会、1975年11月発行、344頁より引用
- ^ “山崎の大蛇退治の伝説”. 2012年1月1日閲覧。
- ^ “大蛇の池(長野免山崎 志佐川)”. 2006年11月7日閲覧。
- ^ “横辺田の大蛇退治”. 2010年12月閲覧。
池(河内守)家
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平清盛の異母弟、池大納言こと平頼盛を家祖とする平家の一門である。清盛の父、平忠盛の後妻・藤原宗子は忠盛死後、六波羅池殿に住み池禅尼とよばれた。池殿は実子頼盛に伝領され、頼盛はこれによって池殿、池大納言と通称された。頼盛は平家都落ちにも同道せず、源頼朝の厚遇もあり、平家滅亡後も本官に還任され、平家没官領として没収された荘園も返還された。頼盛の息子平保業は承久3年(1221年)、池大納言家領のうちの播磨国在田庄預所職に補任される(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2813号)とともに、関東祗候を要請され(「朽木文書」・『鎌倉遺文』2814号)、以後御家人として鎌倉時代末期に至るまで代々の将軍家に仕えた。また頼朝の推挙により朝廷より河内守に任じられた。 池家は、その後は「保業 - 光度 - 為度 - 維度 - 宗度 - 顕盛」と室町時代まで継承されたが、在田庄ほか丹後国倉橋庄与保呂などの池家の所領は顕盛養子の朽木経氏に伝領された(朽木文書・『鎌倉遺文』30280・31207・31245号、『寛政重修諸家譜』)。 なお頼盛に返還された池大納言家領のうち息子光盛に伝領されたものは、娘たちを通して外戚の久我家へ継承された。 薩摩国の有川氏はその後裔と自称した。
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