平頼盛
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平 頼盛(たいら の よりもり、旧字体:平󠄁 賴盛󠄁)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の平氏一門の武将・公卿。平忠盛の五男。母は修理大夫・藤原宗兼の女、宗子(池禅尼)。通称は池殿、池大納言。平清盛の異母弟。清盛の男兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物である。
注釈
- ^ 家成の父方の従姉妹が美福門院であり、母方の従姉妹が宗子になる[1]。
- ^ 『愚管抄』には北条時政の後妻である牧の方の父、大舎人允・宗親は頼盛の長年の家人であり、頼盛から駿河国・大岡牧の管理を任されていたと記されている。『尊卑分脈』には宗子の弟に宗親という名が見られ、両者は同一人物の可能性がある。したがって時政による頼朝の監視・保護は、宗子・頼盛の意向によるという指摘もある[3]。
- ^ なお、「頼盛卿行向議定」という記述がある[24]。この読み方が「頼盛卿の行き向かい議定あり」と「頼盛卿と行き向かい議定す」のどちらであるか、判別が難しい。前者とすれば「(朝廷側が)頼朝上洛の知らせを受けて、使者として頼盛を派遣するべく話し合った」という意味にとれる。しかし『玉葉』『百錬抄』では頼盛は10月に京都を脱出しているので、11月に頼盛が京都にいたとは考えにくい。したがって、後者の「(頼朝は)、頼盛と上洛について話し合った」という解釈が妥当と思われる。
出典
- ^ 高橋昌明 『清盛以前-伊勢平氏の興隆- 増補・改訂版』文理閣、2004年)
- ^ a b c d e f 『愚管抄』
- ^ 杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年、ISBN 4784208186
- ^ 『兵範記』仁安3年11月28日条
- ^ 『兵範記』12月13日条
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年4月6日条
- ^ a b c d e f 『玉葉』同日条
- ^ 『玉葉』文治元年9月19日条
- ^ 『山槐記』『玉葉』5月16日条
- ^ 『玉葉』6月6日条
- ^ 『山槐記』11月16日条
- ^ 『山槐記』12月10日条
- ^ 『吉記』治承5年4月10日条
- ^ 『玉葉』閏2月6日条
- ^ 『玉葉』閏2月7日条
- ^ 『玉葉』4月1日条
- ^ 『吉記』同日条
- ^ 『玉葉』9月28日条
- ^ 『吉記』2月21日条
- ^ 『吉記』2月27日条
- ^ 『吉記』7月25日条
- ^ 『玉葉』7月30日条
- ^ 『玉葉』『百錬抄』同日条
- ^ a b 『玉葉』11月2日条
- ^ 『吾妻鏡』4月6日条
- ^ 岡野友彦 『源氏と日本国王』、講談社、2003年、ISBN 4061496905
- ^ 『百錬抄』同日条
- ^ 『吾妻鏡』同日条
- ^ 『吾妻鏡』6月20日条
- ^ 『山槐記』元暦元年8月18日条、9月17日条
- ^ a b 『吾妻鏡』6月18日条
- ^ 『玉葉』正月5、6、7日条
- ^ 朽木文書・『鎌倉遺文』30280・31207・31245号、『寛政重修諸家譜』
- ^ 岡野友彦「中世前期久我家と源氏長者」『中世久我家と久我領家荘園』、続群書類従完成会、2002年、ISBN 4797107383)
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