福原行幸とは? わかりやすく解説

福原行幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 15:08 UTC 版)

福原京」の記事における「福原行幸」の解説

治承4年6月2日1180年6月26日)、京都から摂津国福原安徳天皇高倉上皇後白河法皇行幸が行なわれ、ここに行宮置かれた。そして平氏政権福原隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営計画した和田現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。 九条兼実日記玉葉』(治承4<1180>年5月30日条)には「来月3日福原行幸あるべし」と記されている。兼実は突然の行幸(遷都)に「仰天」した。本来は6月3日行幸だったはずが2日になったことについては「言語のおよぶところにあらず」と嘆息し遷都に対しても「天狗所為、実にただごとにあらず」として「乱世生まれてこのようなことを見ることになるとは、悲しむべき宿業だ」と批判的に見ている。兼実は6月1日には、使者清盛のもとに遣わし「私も福原に参るべきでしょうか」と尋ねている。清盛返答は「宿所がない。だから、すぐに来る必要はない。追ってまた案内する」というものであったという。 当初平安京同様の条坊制による都市建設しようとしたが、和田平地少なく手狭だったため、すぐにこの計画行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路開通させて親平氏派の一部人々限り宅地与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇代わり院政行なっていた高倉上皇平安京京都)を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏八省院必要ないとした。これに対して清盛は、内裏移建せず、11月新嘗祭までに私的に皇居造営し2年後には八省院などの役所もつくるという方針構えた。 そして11月には皇居似せて造られ清盛私邸天皇提供され17日12月5日)から20日8日)に新嘗祭五節のみが行なわれると(新嘗祭自体京都行なわれた)、23日11日)には京都への還幸となった京都への還幸源氏挙兵対応するため清盛決断したといわれている。

※この「福原行幸」の解説は、「福原京」の解説の一部です。
「福原行幸」を含む「福原京」の記事については、「福原京」の概要を参照ください。

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