反乱の激化と畿内惣官とは? わかりやすく解説

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反乱の激化と畿内惣官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)

平宗盛」の記事における「反乱の激化と畿内惣官」の解説

6月に入ると、清盛突如として福原行幸強行する宗盛四条隆季藤原邦綱とともに高倉後白河両院御幸の列に供奉した。新都建設計画準備不足により難航したため、反対意見出されたが清盛一蹴される。 しかし、8月から全国各地反乱火の手上がり富士川の戦い追討軍が大敗したという報告が届くと、宗盛還都進言して清盛激し口論となり、周囲人々驚かせた。従順だった宗盛までが反対意見述べたことで、今まで押さえ込まれていた還都論は一挙に再燃する清盛還都同意せざるを得なくなり23日一行福原出発26日帰京した。 翌12月から追討本格化するが、近江国早くも反乱軍行く手阻まれ園城寺延暦寺大衆後方攪乱されるなど苦戦続き、「禅門清盛前将軍宗盛)等、気力衰へ了んぬ」、「禅門天下の事を前幕下宗盛)に委ね了んぬ」という情報流れた南都焼討により畿内の反平氏勢力はひとまず鎮圧されたが、翌治承5年1181年正月14日容態悪化していた高倉上皇崩御する。幼い安徳天皇政務執ることができないため、後白河法皇院政再開避けられないものとなった正月19日高倉上皇遺言称して宗盛畿内惣官宣旨が下る。これは五畿内近江伊賀伊勢・丹波の9ヵ国にまたがる強力な軍事指揮権であり、軍事作戦遂行のために必要な権限平氏全面的に掌握することを公的に認めるものだった2月7日には丹波国に諸荘園下司職設置されるなど、反撃準備整えられていった。翌閏2月には、関東への追討使として宗盛が自ら出馬して一族武士大略下向」する予定だったが、清盛の病が「十の九はその憑み無し」という状況となり派兵延期となる(『玉葉』閏2月1日条)。 閏2月4日清盛死去した清盛の死によって、宗盛平氏棟梁の座を継いだ清盛死の直前後白河法皇宗盛協力して政務を行うよう奏上したが、返答がなかったため、恨み残して天下の事、偏に幕下の最なり。異論あるべからずと言い残したという。

※この「反乱の激化と畿内惣官」の解説は、「平宗盛」の解説の一部です。
「反乱の激化と畿内惣官」を含む「平宗盛」の記事については、「平宗盛」の概要を参照ください。

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