反乱の拡大とは? わかりやすく解説

反乱の拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 05:26 UTC 版)

インド大反乱」の記事における「反乱の拡大」の解説

メーラト反乱部隊は翌11日デリー到着しデリー駐留シパーヒー部隊味方につけて駐留イギリス軍駆逐デリー占拠したムガル皇帝バハードゥル・シャー2世反乱軍最高指導者とし、皇帝復権宣言してイギリス戦争開始表明したバハードゥル・シャー2世は彼らに身をゆだねるほかなく、その夜に「ヒンドゥスターン皇帝」としてイギリス宣戦布告する言文発した。 この反乱機に、旧王侯旧地主、農民都市住民反英勢力が、宗教階級越えて一斉に蜂起したカーンプルではナーナー・サーヒブとその武将ターンティヤー・トーペーが、ジャーンシーではラクシュミー・バーイーが、ビハールでは大領クンワル・シングといった指導者立ち上がり、兵を率いてイギリス軍抵抗したまた、アワドではカルカッタ追放され藩王王妃ハズラト・マハルが息子ビルジース・カドルを擁しアワド王(ナワーブ)である宣言しシパーヒー農民領主ザミーンダール、タールクダール)らの支持得た反乱イギリス直轄領旧藩王国領をはじめ、北インド中心におよそインド3分の2近く地域拡大し前年併合されアワドは特に反乱勢い激しかったまた、デリーでは7月バフト・ハーン率いる軍が到着したことから反乱軍勢いづき、デリー防衛戦優位に進めたデリーではムガル帝国国家体制一時整えられたかに見えた。 しかし、内紛もあり反乱軍まとまり欠き支配地域拡大にも陰り見え始めたシパーヒー達は高位高官についた経験がない者が殆どで、有能な指揮官事欠いていた。シパーヒー離脱したことによって兵力不足となっていたイギリスは、周辺民族や旧支配階級懐柔するなど政治的工作実施し結果大半藩王国味方につけたほか、ネパール王国グルカ兵はじめとする傭兵投入したほか、反乱勢力鎮圧向けて組織立て直し反乱軍対す攻勢強めた同年8月からはデリー反乱軍劣勢となり、9月になるとイギリス軍デリー総攻撃開始バハードゥル・シャー2世王城デリー城から脱出しイギリス投降したデリーにおける大反乱は4ヶ月終結したその後、大反乱舞台地方に移ることになる。メーラト反乱後反乱インド北部(特にガンジス川流域)を中心に拡大しており、カーンプルアワドビハールなどで反乱地方政権イギリス相手となった有名な激戦地ジャーンシーグワーリヤルであり、騎兵率いてインドジャンヌ・ダルク」と呼ばれた王妃ラクシュミー・バーイー抵抗イギリス苦戦し1858年6月まで戦い続いた

※この「反乱の拡大」の解説は、「インド大反乱」の解説の一部です。
「反乱の拡大」を含む「インド大反乱」の記事については、「インド大反乱」の概要を参照ください。

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