ナーナー・サーヒブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 09:05 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動ナーナー・サーヒブ (Nana Sahib, 1824年5月19日 - 1859年?)は、インド、マラーター王国の宰相だったバージー・ラーオ2世の養子[1]。 本名はドゥーンドゥー・パント。
生涯
1824年5月19日、ナーナー・サーヒブはビトゥールで生まれた[2]。
1827年、マラーター王国の最期の宰相だったバージー・ラーオ2世の養子となった。彼は第三次マラーター戦争で敗北したのち、ビトゥールに追放されていた。
ナーナー・サーヒブの若いころはあまりよくわかっていないが、この間にターンティヤー・トーペーやアズィームッラー・ハーンなどの優れた部下を集めた。また、ラクシュミー・バーイーともこのころに知り合ったとされる。
1851年1月、養父バージー・ラーオ2世が死亡した。だが、彼に支給されていた年額80万ルピーの年金は「失権の原理」により打ち切られ、その相続は否定された。このことから彼はイギリスに恨みを持つようになった。
1857年5月、インド大反乱が勃発すると、6月5日にナーナー・サーヒブも蜂起し、翌日に1500の兵でカーンプルを占拠した[3]。その際にイギリス系を中心としたヨーロッパ人を多数虐殺した。
だが、同年7月にカーンプルが奪還され、その後の再奪還にも失敗したのち、11月を境にその消息を絶った。1859年に亡命先のネパールで死去したとされるが、詳細は今もなお不明である。
脚注
- ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.357
- ^ Wolpert, Stanley. A New History of India (3rd ed., 1989), pp. 226–28. Oxford University Press.
- ^ Brock, William (1857). A Biographical Sketch of Sir Henry Havelock, K. C. B.. Tauchnitz 2007年7月12日閲覧。
参考文献
- ブライアン・ガードナー、浜本正夫訳 『イギリス東インド会社』 リブロポート、1989年。
関連項目
ナーナー・サーヒブ
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「ちるらん 新撰組鎮魂歌」の記事における「ナーナー・サーヒブ」の解説
インド出身。インド伝統武術カラリパヤットの遣い手で変幻自在の長剣ウルミを使用する。
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