デリーにおける反乱とその鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 00:14 UTC 版)
「バハードゥル・シャー2世」の記事における「デリーにおける反乱とその鎮圧」の解説
デリーの反乱政府では、皇帝バハードゥル・シャー2世を名目上の君主とし、執行機関として兵士6人と一般人4人からなる「行政会議」が結成され(なお、行政会議はヒンドゥーとムスリムそれぞれ5人ずつからなっていた)、反乱軍総大将をバフト・ハーンに決定した。行政会議はザミーンダーリー制を廃止し、実際の土地耕作者にその土地の権利を認めるなど、民主制に似た体制が樹立された。 イギリスが最も重視した地域は北部の3つの都市デリー、ラクナウ、カーンプルとマラーターが制圧した中部インドであった。8月にはまだ勢いがあった反乱軍も、シパーヒーら指揮官としての経験不足や、9月になるとその勢いを落とし、戦いを繰り返してもイギリス軍に敗れるようになった。やはり、イギリスとインド側反乱軍との間には圧倒的な軍事力・組織力の差があった。 そして、9月14日にイギリス軍はついに、ムガル帝国の首都デリーに総攻撃をかけ、激しい戦いが繰り広げられた(デリー包囲戦)。バハードゥル・シャー2世は包囲攻撃しているさなかヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の協力関係の維持に尽力したが、もともと反乱には乗り気ではなかった彼はやがて降伏を決意した。バフト・ハーンは降伏に反対したが、20日と彼はその一族と混乱の中で降伏し、21日までにイギリスはデリーを制圧した。 デリーではイギリス軍による報復として、略奪と無差別虐殺、破壊行為が行われ、その最中に皇帝の息子ミールザー・ムガルとミールザー・ヒズル・スルターン、孫のミールザー・アブー・バフトがウィリアム・ホドソンによって殺害されてしまった。そして、ヒンドゥー教徒は1858年1月まで、ムスリムは1859年1月までデリーに戻ることを許されなかった。 反乱は最大の激戦地アワドへと移り、各地の反乱は次第に鎮圧されていき、1858年6月20日にはラクシュミー・バーイーの拠点で反乱軍最後の拠点でもあったグワーリヤル城が陥落し、同年7月8日インド総督カニングは反乱鎮圧の宣言をした。同月にナーナー・サーヒブが消息を絶ち、バフト・ハーンとターンティヤー・トーペーはゲリラ戦を続けたが、1859年までにそれぞれ処刑あるいは戦死し、同年中頃までに大反乱は終結した。
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