デリーにおけるイラン軍の蹂躙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/01 06:16 UTC 版)
「ナーディル・シャーのムガル帝国侵攻」の記事における「デリーにおけるイラン軍の蹂躙」の解説
こうして、同年3月20日、ナーディル・シャーは軍とともにデリーへ入城し、デリーを占領した。だが、これに不服だったデリーの住人はムハンマド・シャーの意に反して、21日にイラン軍に反撃に出始め、ナーディル・シャーは軍に市民を皆殺しにするよう命じた。 この虐殺による死者は30,000人にも及んだとされ、イラン軍による殺戮、略奪、放火はすさまじく、デリーは無法地帯と化した。帝室の財産があるデリー城にも略奪が及び、宝物庫からはコーヒ・ヌール、ダリヤーイェ・ヌールのダイヤモンドなど、多数の財宝を運び出され、シャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も持ち出されてしまった(のち孔雀の玉座はイランで解体された)。また、主だった貴族からは献納金を徴収し、虐殺から辛うじて生き延びた市中の人々にも身代金が課せられた。 ナーディル・シャーはじつに略奪額7億ルピーに相当すると推定される戦利品を得たという。それは兵士に未払いの給料と6カ月分の給料に相当する特別手当の支払いを可能にし、イランにおいて3年間にわたる免税さえも可能にした。
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