デリーからの撤退と復権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 10:04 UTC 版)
「マハーダージー・シンディア」の記事における「デリーからの撤退と復権」の解説
1787年7月、マハーダージーはラージャスターンのラールソートでラージプートの連合軍に敗北し(ラールソートの戦い)、その責任を追及されたため、彼の権力が弱まることとなった。ヒンドゥー教徒が宰相であることに対して憤慨していたムスリムがその排斥に終結することとなり、彼の立場は弱まりデリーから撤退した。 そして、同年7月18日にアフガン系ローヒラー族の族長グラーム・カーディル・ハーン(ナジーブ・ハーンの孫)がその空白を狙ってデリーを占領し、皇帝シャー・アーラム2世やその家族に対して凄惨な暴行を加え続ける事件が起きた。 しかし、2ヶ月後、グラーム・カーディル・ハーンの軍に食糧不足が起こったため、10月2日に彼は略奪した2億5000万ルピーもの財宝とともにデリーから撤退した。マハーダージーはこれを見て、翌日にローヒラー族の軍と入れ替わる形で、軍勢とともにデリーに入った。 マハーダージーはローヒラー族の軍を追撃し、略奪した財宝は帝国に返却し、1789年3月にグラーム・カーディル・ハーンも捕えられたのち殺害された。 こうして、マハーダージーはデリーに復権したばかりか、ムガル帝国の庇護者として、帝国の運命さえも左右するようになっていたのである。
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