ラールソートの戦いとは? わかりやすく解説

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ラールソートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/22 13:24 UTC 版)

ラールソートの戦い
Battle of Lalsot
1787年7月28日
場所 ラールソート
結果 ラージプート側の勝利
領土の
変化
変遷なし
衝突した勢力
シンディア家

アンベール王国

マールワール王国
指揮官
マハーダージー・シンディア
ブノワ・ド・ボアーニュ
ラーネー・ハーン
プラタープ・シング
ヴィジャイ・シング
ムハンマド・ベグ・ハマダーニー  
ビーム・シング戦傷
戦力
80,000人[1] 30,000人(アンベール軍)
20,000人 (マールワール軍)[2]
被害者数
甚大 甚大

ラールソートの戦い(ラールソートのたたかい、英語:Battle of Lalsot)は、1787年7月28日インドラールソートにおいて、マラーターシンディア家ラージプートの間で行われた戦闘

戦闘に至るまで

1784年マラーターの諸侯マハーダージー・シンディアムガル帝国摂政と軍総司令官となり[3]、その後は北インド覇権を確立するため、ラージャスターンに進撃した。

そのため、アンベールプラタープ・シングマールワールヴィジャイ・シングは同盟し、共同でこれに対処することにした。

戦闘とその後

1787年7月28日、マラーター軍とラージプートの連合軍はラールソートで激突した。 マラーター軍は8万、迎え撃つラージプート軍は5万だった[4]

戦いは朝9時に始まり、日没後およそ一時間まで続いた。その戦いは激戦であり、かつての第三次パーニーパットの戦いのようであったという[5]

この戦いはマハーダージーの敗北に終わり、甚大な損害を被った。だが、ラージプートの側も甚大で、マールワール側の武将ビーム・シングは負傷、アンベールの武将ムハンマド・ベグ・ハマダーニーが戦死している[6]

8月8日、マハーダージーはラールソートから撤退し、ディーグへと向かった[5]。だが、この敗戦が彼に与えた影響は大きかった[3]。敗戦の結果、帝国の宮廷のムスリムらが結集してその追い落としにかかり、これによりマハーダージーは一時的に失脚した[3]

脚注

  1. ^ A History of Jaipur: C. 1503-1938 by Jadunath Sarkar
  2. ^ A History of Jaipur: C. 1503-1938 by Jadunath Sarkar
  3. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.261
  4. ^ A History of Jaipur: C. 1503-1938 by Jadunath Sarkar
  5. ^ a b The Great Maratha Mahadaji Scindia - N. G. Rathod - Google ブックス
  6. ^ A History of Jaipur: C. 1503-1938 by Jadunath Sarkar

参考文献

  • フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社2009年 

関連項目




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