ちるさくら海あをければ海へちる
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
春 |
出 典 |
白い夏野 |
前 書 |
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評 言 |
この句で使われている言葉は要するに「桜」「ちる」「海」。そして「あをければ」が思いのほか詩的効果を上げていると私は見る。まず、この一句が醸し出す世界は異様に静謐で孤独だ。眼前に桜の花びらが悠久とも思える時間を散り続けている、一幅の動く絵があるとする。その絵の上部からいくつかのそう多くはない花びらが、明るい光を放ちながら、下方に向かって絶えず降り続けている。下方に青黒い海がひろがっている。分厚くゆったりとたゆたう水面である。その絵はいつまでも眼前に掲げられ飽かず見とれている、という自分がいるようだ。そこに「海あをければ」との修辞。ただ一途に散りゆく花びらのひたすらな行為は、人間世界にも通じる巧みなレトリックにも思えてくるのである。 現代の目から見てもこの秋窓の俳句は、季語を中心に据え風物を心情の機微でとらえる数多の俳句の最も対極にあると思う。 高屋窓秋がこの句をつくったのは昭和八年。二年前に有名な「頭の中で白い夏野となってゐる」をつくっている。一切の風景を抹殺した全くの抽象概念のみで構成されている。昭和六年といえば水原秋桜子が「『自然の真』と『文芸上の真』」を発表して「ホトトギス」を離脱した年である。そうした俳句史上大きなうねりがはじまった時期であったが、世はまだ虚子の客観写生、花鳥諷詠が大勢を占めていた。そこに窓秋のこれらの俳句は大きな驚きをもってむかえられたことだろう。 このあと新興俳句運動が展開されていくなかで、高屋窓秋とその俳句が大きく影響を与えていったのも十分に納得できる。 |
評 者 |
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備 考 |
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