反乱鎮圧とは? わかりやすく解説

反乱鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 06:13 UTC 版)

鄧羌」の記事における「反乱鎮圧」の解説

南匈奴各種の張罔が兵数千を集めると、大単于自称するようになり、郡県を略奪して回った。この事態苻堅は、鄧羌を建節将軍任命し鎮圧命じた鄧羌は兵七千を率いると瞬く間にこれを平定させた。 365年7月匈奴右賢王の曹轂・左賢王劉衛辰兵を挙げ反旗を翻すと、兵二率いて杏城以南の郡県に侵攻すべく、馬蘭山まで軍を進めた。これに対して苻堅は、中外精鋭率いて討伐乗り出した鄧羌劉衛辰討伐命じられると、木根山で生け捕りにした。 367年10月上邽の苻双・蒲坂苻柳苻堅反乱起こした。さらに陝城の苻廋安定の苻武がこれに呼応して共同長安へと侵攻する準備始めた368年1月苻堅の命を受け、鄧羌王猛と共に苻柳のいる蒲坂攻撃するため軍を進めた4月苻柳決戦挑もう挑発続けたが、鄧羌らは塁を塞いで応じようとしなかった。撃って出ない敵軍見た苻柳は、自分恐れているのではないか思い込んだ5月苻柳は子の苻良に蒲坂守り任せ、兵二率いて長安へと軍を向けた苻柳蒲坂から百里余りまで来たところで、鄧羌軽騎七千を率いて苻柳軍に夜襲掛け、これを散々に撃ち破ったこのため苻柳は軍を返したが、王猛全軍挙げてこれの追撃掛かり、そのほとんどを捕虜とした。苻柳数百騎を引き連れてかろうじて蒲坂へと戻った9月鄧羌らが蒲坂攻略し苻柳始めその妻子首を刎ね長安へと運ばせた。王猛そのまま蒲坂止まり鄧羌は王鑒と共に陝城の苻廋攻撃向かった12月鄧羌らは陝城を陥落させると、苻廋長安へと護送したまた、陝城の守備についた366年2月隴西自立していた李儼討伐貢献し功績により鄧羌建武将軍洛州刺史となった

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反乱鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 06:55 UTC 版)

朱序」の記事における「反乱鎮圧」の解説

後に都督揚州豫州五郡諸軍事・豫州刺史任じられ洛陽駐屯した。 太元11年386年1月丁零首長翟遼東晋背いて黎陽占拠すると、朱序将軍秦膺・童斌を派遣し、淮・泗の諸郡と共にこれを討伐させた。8月翟遼が譙へ侵攻してくると、朱序はこれを返り討ちにし、翟遼敗走させた。 太元12年387年1月、監青兗二州諸軍事・青兗二州刺史任じられ将軍位については以前通りとされた。また、謝玄に代わって彭城鎮守するよう命じられたが、朱序淮陰鎮守することを請うと、認められた。 同月翟遼が自らの子である翟釗派遣して陳・穎へ侵攻させると、朱序将軍秦膺を派遣してこれを撃退した功績により征将軍任じられた。また上表して江州の米10万石・布5千匹を運んで軍費充てたいと要請すると、詔により聞き入れられた。 太元13年388年4月都督司雍四州諸軍事・雍州刺史任じられた。朱序は治所である洛陽赴任すると、山陵守備当たった孝武帝は広威将軍河南郡太守楊佺期南陽郡太守趙睦を派遣し各々千人率いさせて朱序配下につけた。また朱序上表して、以前荊州刺史桓石生の府にある田畑百頃と穀物8万石求めると、これを支給された。 太元15年390年1月西燕君主慕容永が兵を率いて洛陽へ襲来した朱序河陰から北に黄河を渡ると、沁水において西燕将軍王次多らと交戦となったが、敵軍撃破してその配下である勿支を討ち取ったまた、参軍趙睦・江夏相桓不才命じて慕容永追撃させ、太行においてこれを撃破した慕容永長子へと敗走した。 この時、楊という人物数千の衆を従えて湖陝に割拠していたが、彼は慕容永敗戦聞くや否や自らの子人質として降伏請うた。 朱序慕容永追撃続けて白水まで到達し敵軍20日渡って対峙した。だが、翟遼金墉洛陽城の一角)へ進出しようとしていると聞き、軍を転進させて石門にいる翟釗撃破し、さらに参軍を懐県に派遣して翟遼撃ち破った。これにより翟遼宵闇乗じて逃走したその後朱序洛陽へ撤退すると、鷹揚将軍党に石門を守らせた。また、子の略を洛陽城の督護とすると、参軍補佐役として残した上で、自らは襄陽帰還した宰相会稽王司馬道子は朱序功績至らぬ点が共にあったことから、褒賞叱責もしなかったという。 その後前秦の東羌校尉竇衝漢川進出しようとすると、安定の人である皇甫釗・京兆の人である周勲らは反乱起こして竇衝迎え入れようと企んだ梁州刺史周瓊は巴西三郡を失っており、これに抗う兵がいなかった事から、朱序危急告げた朱序はこれに応じ将軍皇甫貞に兵を与えて救援に向かわせた。その後竇衝長安の東に拠ったが、皇甫釗・周勲は散り散りになって逃走した以前より、朱序老いと病を理由幾度も職を辞する事を願い出ていたが、許可得られなかった。その為、彼は詔を拒絶して任を離れてしまった。数十日後、廷尉出頭して罪を請うたが詔により不問とされた。 太元17年392年10月朱序改め老病理由解職請う遂に認められ太子右衛率郗恢が雍州刺史として朱序に代わって襄陽を守る事となった。 太元18年393年)、この世去った左将軍散騎常侍追贈された。

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反乱鎮圧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)

陶侃」の記事における「反乱鎮圧」の解説

太安2年303年)、義陽の賊である張昌各地流人集め江夏挙兵した。張昌江夏攻め下すと、一月の間に3の兵が集まった張昌快進撃続けて荊・江・徐・揚・豫の五州を席巻した。朝廷大い震えあがり、劉弘南蛮校尉荊州刺史任じて鎮圧に当たらせた。劉弘着任すると、陶侃招聘して南蛮長史大都護に任じ、軍の先鋒として襄陽に向かわせた。 7月陶侃参軍の蒯桓・皮初と共に竟陵にいる張昌攻撃した陶侃張昌幾度も交戦繰り広げ遂に大勝し数万人を斬り殺した張昌下雋山へと逃亡し残兵全て投降し、乱は鎮圧された。劉弘感嘆して陶侃へ「我がかつて羊公(羊祜)の参軍であった時、羊公は『我の後には君がその地位に至るだろう』と言ってくださった。今、汝を観察するに、汝こそが我の後を継ぐ者であるな」と称えた。 後に戦功により東郷侯に封じられ千戸食邑与えられた。 永興2年305年)、揚州刺史陳敏は、北方大乱最中にあり朝廷には江東統制する力がないと見て揚州において挙兵した。さらに、弟の陳恢江西派遣し武昌攻撃させ、江南一帯占拠目論んだ劉弘陶侃江夏郡太守鷹揚将軍任じ陳恢迎撃に当たらせた。陶侃立ち居振る舞いには威厳備わっていた。また、出発前に母を官舎招き入れると、郷里の人はこれを栄誉であると称えた陶侃は軍を進めると、陳恢軍の攻勢阻んだ隨郡内史である扈懐は、劉弘面前陶侃讒言し陶侃陳敏同郷の誼があり、郡太守地位にあって強兵統領しております。もし彼に異心があれば、荊州東大門は既に失陥したも同じです」と説いたが、劉弘は「陶侃忠義に篤く実直であり、才知長けている。我はずいぶん古くから彼の事をよく理解している。どうしてそのような考えを抱くというのか」と言い取り合わなかった。このことが陶侃耳に入ると、直ちに子の陶洪と兄の子の陶臻を劉弘の下に人質として送り劉弘へ自らの忠誠伝えた。だが、劉弘は彼らを参軍任じると、恩賞与えて陶侃の下へ返してやった。その去り際に「賢叔(陶侃のこと)は出征出ており、祖母高齢であるから汝ら帰るべきだ。田舎匹夫でも互いに付き合え裏切らないというのに、ましてやそれが大丈夫であるならなおさらであろう」と話した劉弘陶侃に督護を加えると、諸軍合わせて陳恢迎撃させた。陶侃輸送船軍艦として戦に用いようとしたが、これに難色を示す者がいた。陶侃は「官船を用いて官賊を討つことに、一体何の問題があるというのか」と反論した陶侃陳恢交戦すると、幾度もこれを討ち破った。さらに、皮初・張光光と共に、長岐において陳敏配下の銭端を破った陶侃の軍は厳粛であり整然としており、戦利品はすべて士卒分配し私腹を肥やすことは無かった

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