反人種差別と公民権運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:32 UTC 版)
「フランク・シナトラ」の記事における「反人種差別と公民権運動」の解説
公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代後半のアメリカで、アフリカ系の血を引いていたサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて、シナトラが「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。 しかし、シナトラはデイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、自らが新興移民のイタリア系移民であることから、幼少期から自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってデイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。またルイ・アームストロングとの共作をはじめ、黒人の音楽センスを高く評価していた。 さらに、当時公民権運動を進めるマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を支援しただけではなく、ラスベガスでも当時人種差別が盛んで、黒人は食べるところからトイレ、さらには住める場所まで制限されていたが、シナトラはそのような差別を行うクラブを敬遠し、また黒人のアーティストにボディーガードをつけるなど様々な対策を行い、次第にシナトラを中心としたミュージシャンを中心にそのような差別は少なくなっていった。 しかしその反面、シナトラと仲の良かったアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのクインシー・ジョーンズは自伝の中で、シナトラが「日常的に人種差別発言を行っていた」ことを暴露し、シナトラはサミー・デイヴィスに酔って暴力をふるっていたことも明らかになっている(これは他の白人メンバーに対しても同様であった)。
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