反体制の歴史家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:08 UTC 版)
「ロイ・メドヴェージェフ」の記事における「反体制の歴史家」の解説
ロイはマルクス主義の視点から、ソビエト時代にヨシフ・スターリンとスターリニズムを公然と批判した。1960年代初期のロイは、地下出版(サミズダート)活動に従事していた。彼はルイセンコ論争の非科学性に批判的であった。1969年、ロイはソ連がプロパガンダによってスターリンの名誉を部分的に回復させようとしていた当時に、スターリンとスターリニズムを批判する内容の書物『共産主義とは何か』を出版したことで共産党から除名された。同書は、民族社会主義とレーニン主義への回帰、改革を求めたロイのように、1960年代のソ連の知識人たちのあいだで登場した反体制的な考えを反映したものである。ロイはアンドレイ・サハロフらとともに、1970年にソ連の指導者に対して公開書簡でもって自身の立場を表明した。 ロイはしばしば自宅軟禁に置かれ、レオニード・ブレジネフによる指導のもとでKGBによる嫌がらせを受けたが、ソビエトの歴史と政治に関する多数の批評の著書の国外出版に漕ぎ着けた。1960年代の終わりごろ、『共産主義とは何か』の国外出版に成功すると、彼は民主主義の積極的支援のために圧迫された。ジョレスとの共著『告発する!狂人は誰か』の中で、ロイはカルーガ精神病院でジョレスが予防拘禁されたことについて述べている。ジョレスはその病院で、地下出版とのかかわりについてや、1969年の著書『トロフィム・ルイセンコの興亡』について尋問され、1970年代に英国へ追放された。 1989年、ロイは共産党に復党する。その後はゴルバチョフによるペレストロイカとグラスノスチという、政治的で経済的な改革が段階的に着手された。1991年12月にソ連が崩壊すると、旧共産党系の人民代議員とともに社会主義勤労者党を設立し共同議長となった。 ウラジーミル・プーチンに批判的な報道機関ノーヴァヤ・ガゼータによれば、ロイはプーチンを支持していると批判されている。
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