反体制活動の広がり
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「エストニアの独立回復」の記事における「反体制活動の広がり」の解説
1987年8月15日、パレクを中心とする7人の元政治囚が、独ソ不可侵条約秘密議定書の公表を求めて「議定書公表のためのエストニア・グループ」(et, MRP-AEG) を組織した。MRP-AEGはラトビアのヘルシンキ86(ラトビア語版)およびリトアニアの元政治囚たちと協同して、同月23日の条約締結記念日に各共和国の首都で静かなデモを行うよう呼びかけた。その表向きの理由はスターリン体制の犠牲者追悼であったが、真の目的は、独ソ不可侵条約と三国のソビエト化の違法性を問うことにあった。 MRP-AEGが23日にタリンで開催したヒルヴェ公園の集会(エストニア語版)は、ソ連で初めての当局の妨害を受けず、それには数千人が参加した。エストニア通信社 (et) や共産党機関紙『ラフヴァ・ハール(ロシア語版)』は集会が西側による謀略であると喧伝し、直後に中心人物のティート・マティソン(エストニア語版)は国外追放となった。しかしこの露骨な弾圧に対しては、それまで保守的であった創作家諸同盟 (et) 幹部たちも強く抗議し、独ソ不可侵条約の全文公開と学校教育の緩和を求める手紙を、共産党煽動・宣伝局局長宛に書き送った。 次いで12月12日には、言語学者トリヴィミ・ヴィッリステ(ロシア語版)や歴史家マルト・ラール(英語版)を中心として、エストニア各地の文化遺産保護組織が糾合した「民族遺産保存協会」(et) が登録され、戦前の国旗・地名・時間帯の復活や独立戦争記念碑の再建立などを求めて活動を開始した。この年には、長らく禁じられていたクリスマスも復活した。翌1988年1月21日にはMRP-AEGをエストニア民族独立党(エストニア語版)に発展させる提案において、ついにエストニア国家の独立が目標として明言された。
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