反体制派による首都攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:41 UTC 版)
「2011年リビア内戦」の記事における「反体制派による首都攻勢」の解説
8月4日から5日にかけてのNATOのズリタン空爆でカダフィ大佐の七男のハミース・ムアンマル・アル=カッザーフィー(英語版)がNATOの空爆により死亡したとされたが、カダフィ大佐側はこれを否定。9日には国営テレビにてハミースの映像を公開し無事をアピールした。 評議会軍は、6日にビルガナム、14日には首都西方の補給路ザウィヤ、15日には南方のガリヤンを制圧し、首都包囲が完了したと発表した。17日にはトリポリに石油を送るパイプが遮断された。 カダフィ大佐はこれに対して14日からスカッドミサイルなどのロケット弾で反撃し15日からはカダフィ大佐が度々メッセージを発信し抗戦を呼びかけた。しかし劣勢に立たされた陣営からは離脱者が相次いだ。15日にはアブドラ内相がチュニジア経由でエジプトへ、19日にはジャルド元首相がチュニジア経由でイタリアへ亡命し、20日にはイタリアへ出向いていたオムラン・ブクラ石油相が帰国を拒否した。 評議会は19日にズリデン、20日にブレガを奪還した。また19日夜、海路でトリポリに武器が持ち込まれ、市内に潜む反体制派に手渡された。
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