反体制者
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ジラスはヨシップ・ブロズ・ティトーの後継者と広く見なされ、1953年にユーゴスラビア大統領に選ばれるとされていた。ジラスはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の連邦議会議長となり、1953年12月25日から1954年1月16日まで務めた。1953年10月から1954年1月の間、彼はユーゴスラビア共産主義者同盟の機関紙『ボルバ』に19本の論説を書き(18本のみが掲載された)、そこで彼は数多くの軍高官や国家官庁職員がベオグラードの一等地に高価な家や利益を受け取っている新しい支配階級がユーゴスラビアに形成されていると述べた。ティトーや他の主要なユーゴスラビア共産主義者らは、ジラスの論拠を読み、彼らの指導的地位への脅威になるとして、1954年1月にジラスを1937年以来のメンバーであった党の中央委員会から追放、そして、すべての政治的機能から彼の批判を退けた。彼はその後、1954年3月に共産主義者同盟を退身した。1954年12月25日、彼はユーゴスラビアの状況は「全体主義」を特徴とし、国家はそれに加えて、「非民主的強制力」や「反動的構成要素」によって支配されていると『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューの中で語った。また、「新しい民主的な社会主義党」の形成、そして二大政党制を訴える。この「敵対的プロパガンダ」により、彼は裁判にかけられ、条件付きで懲役1年5か月の判決が下った。 ジラスはソビエト連邦のハンガリー介入を非難する国連決議でユーゴスラビアが棄権することについてAFP通信で反対する旨を述べ、並びに雑誌『The New Leader』でハンガリー革命を支援する論説を書いたため、のちの、1956年11月19日に逮捕された。彼は3年以上の懲役に処せられた。1957年、ジラスは国外で『新しい階級:共産主義制度の分析』を刊行、彼はすでに投獄される前にアメリカ合衆国の出版社プレイガーに送っていた。著書の中でソ連や東欧の共産主義は平等主義では無く、特権的官僚層による新階級が確立したこと、それがその地位を利用して物質的な利益を享受している。著書は大成功を修め、40以上の言語に翻訳された。1957年にジラスは「新階級」によって新たに7年の懲役を言い渡され、前の刑期を合わせて10年になった。 刑務所内で、ジラスはモンテネグロの主教公(英語版)であり、偉大な詩人でもあったペータル2世(英語版)の膨大な学術的伝記を完成させ、そしてまた、小説 (『Montenegro』) や短編小説を書いた。 1958年、彼のモンテネグロでの青年時代について書かれた『Land Without Justice』と題した回顧録の第一巻を国外で出版、すでに1954年に完成していたがユーゴスラビアの出版社によって拒否されていた。 ジラスは懲役4年2ヶ月にわたって服役した後、条件付きで1961年1月20日に釈放された。1961年の間中、ジラスは外国人ジャーナリストや学者らと接触すれば刑務所に送り返すとセルビア政府によって繰り返し脅かされていた。彼は『スターリンとの対話』を国外で刊行したため1962年4月に再び投獄されるが、著書は国際的成功を再び修める、ジラスは個人的に最高傑作と考えている(『Rise and Fall』を参照 )。『スターリンとの対話』は長きにわたって常に彼の心にあったにもかかわらず、彼が釈放されたあとの1961年に書いた(『Rise and Fall』, p. 396)。原稿は、デイヴット・プライス=ジョーンズが『Remembering Milovan Djilas』で述べてるように、刑務所の外に持ち出すことができなかった。『スターリンとの対話』で1962年8月、新たに懲役5年の刑を宣告 – つまり以前の処罰に追加、懲役15年 - 申立てによれば、「国家機密を暴露した」ことについて彼は否定している。著書が言及するアルバニア及びユーゴスラビア(による併合)が連合する可能性については、共産主義指導者たちにとって最も厄介なことであると見られていた。 ジラスは抑留中にトイレットペーパーを活用して、複数の小説を書き、ジョン・ミルトンの『失楽園』をセルボ・クロアチア語に翻訳した。 1966年12月31日、ジラスは刑務所で9年間服役後、無条件で恩赦され、自由の身になった、もはや再び投獄されることはなかった。彼は1995年4月20日に死去するまで論争の人としてベオグラードに居住、西側諸大国の目には英雄として映った反体制派で有り続けた。
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