国際的成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:23 UTC 版)
「ジョルジュ・メリエス」の記事における「国際的成功」の解説
1900年には33作品を製作しており、中には13分の長さの『ジャンヌ・ダルク(英語版)』がある。『一人オーケストラ』では特殊効果をさらに進化させ、メリエス本人を7人同時に登場させてオーケストラを演じている。また Le Rêve de Noël という作品では、イエス・キリストの誕生の場面を特殊効果を使って描いている。1901年も映画を製作し続けて成功を収め、メリエスの名声は頂点に達した。La Chrysalide et le papillon d'or では、ある男が毛虫を翼のある美しい女性に変化させ、次に自身が毛虫に変化する。また、シャルル・ペローの物語に基づいたおとぎ話 Le Petit chaperon rouge(赤ずきん)や『青ひげ(英語版)』といった作品もある。『青ひげ』ではメリエスが主人公の青ひげを演じ、ジュアンヌ・ダルシーらが共演している。この映画ではクロスカッティングやマッチカットといった技法を使い、登場人物が部屋から部屋へ移動する様子を描いている。エジソンの会社の1902年の映画『ジャックと豆の木(英語版)』は、メリエスの『青ひげ』などの作品の技法を真似たものだが、あまり成功しなかった。同年製作の L'Omnibus des toqués blancs et noirs は黒人役を使ったバーレスクで、バスの4人の白人乗客が1人の大きな黒人に変化して、バス運転手がそれを撃つという話である。1902年になるとカメラを移動させて登場人物の大きさが変化したように見せるトリックの実験を始めた。台車に載せたカメラを前方に移動させたもので、同時にカメラマンは正確にフォーカスを調整し、役者は必要に応じて立ち位置を調整しなければならなかった。その技法を最初に使った作品が Le Diable géant ou Le Miracle de la madonne で、メリエス演じるサタンが巨大化してウィリアム・シェイクスピアのジュリエットを脅かすが、そこに聖母マリアが現れるとサタンが小さくなるという話だった。同じ技法は『ゴム頭の男(英語版)』でも使われており、メリエス演じる科学者の頭が巨大化する。この技法も含め彼が長年改良してきた特殊効果の技術の集大成ともいうべき映画がこの年に製作された。 1902年5月、有名な『月世界旅行』を製作。宇宙船が月の目に突き刺さるシーンでよく知られている。ジュール・ベルヌの『月世界旅行』とH・G・ウェルズの『月世界最初の人間』を参考にした。メリエスは『天文学者の夢』(1898) で演じた天文学者によく似た教授を演じている。その教授は天文学会の会長で、月旅行の監督を務めている。巨大な弾丸のような形状の宇宙船が彼の研究所で作られ、それに6人の男が乗り組んで月を目指す。宇宙船は巨大な大砲で発射され、月を演じる男の目に突き刺さる。6人の男は月面を探検し、眠りにつく。夢の中で彼らの周りを星座が踊り、フォリー・ベルジェール所属の軽業師が演じる月人が襲撃してくる。月人から逃れて宇宙船にたどり着き、なんとか月を離れ、地球の海に着水する(水槽を多重露光で重ねて深海の雰囲気を出している)。最後に6人は研究所に生還し、後援者らに歓迎された。14分というメリエスとしてはそれまでで最長の作品であり、製作費は1万フランだった。モノクロ版と手描きで色をつけたカラー版を興行主らに販売し、フランスだけでなく世界中で大成功を収めた。これによりメリエスはアメリカでも有名になり、トーマス・エジソンやカール・レムリも違法コピーした海賊版で一儲けした。この著作権侵害をきっかけとして、メリエスはスター・フィルムのニューヨーク支社を立ち上げ、兄ガストン・メリエス(英語版)が支社長となった。ガストンは靴屋では事業に失敗していた。1902年11月にニューヨークに着いたガストンは、アメリカでの著作権侵害の証拠を発見。例えば、バイオグラフ社(英語版)が映画プロモーターのチャールズ・アーバン(英語版)にロイヤルティを支払っていた。ニューヨークには Lucien Reulos (ガストンの義理の妹の夫)がついて行った。 1902年のメリエスの成功はさらに続き、3つの作品が当たった。『エドワード七世の戴冠式』では、イギリス国王エドワード7世の戴冠式を再現した。この映画は実際の戴冠式の前に撮影されており、スター・フィルムのロンドンでの代理人チャールズ・アーバンが取り仕切った。実際の戴冠式の予定日には上映可能となっていたが、エドワード7世の健康状態に問題が生じ、戴冠式が6週間延期された。そこでメリエスは実際の行列を撮影して映画に加えた。映画は当たり、エドワード7世もこれを鑑賞した。次の作品はジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に基づいた Le Voyage de Gulliver à Lilliput et chez les géants とダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に基づいた Les Aventures de Robinson Crusoé だった。 1903年製作の『妖精たちの王国(英語版)』について映画評論家ジャン・ミトリは「疑いもなくメリエスの最高傑作で、ともかく最高に誌的」と評した。18ものセットを使った30部構成の大作である。ロサンゼルスのトーマス・リンカーン・タリー(英語版)は「『月世界旅行』より面白い」と広告を打って1903年に Lyric Theater で上映した。ロサンゼルス・タイムズ紙は「エキスパートが時間と金をかけて映画の限界を示した興味深い作品」と評した。この映画のプリントは英国映画協会とアメリカ議会図書館に保管されている。この年、メリエスは特殊効果の完成に向けた努力を続けた。Le Parapluie fantastique では変化の速度を速くし、『音楽狂』では7重の多重露光による合成を試している。その年の最後に『ファウスト』を題材にした Faust aux enfers を製作。これはエクトル・ベルリオーズのオペラを参考にしているが、ストーリーよりも地獄の旅を特殊効果でいかに表現するかに重点が置かれている。例えば、地下庭園、火の壁、水の壁などが登場する。1904年には続編 Faust and Marguerite を製作。こちらはシャルル・グノーのオペラに基づいている。この2つの映画を繋ぎ合わせた版も作っており、オペラの主要なアリアで同期させている。1904年にも『セビリアの理髪師』に基づいた Le Barbier de Séville で文芸路線を追求した。これらの作品は観客にも評論家にも受けがよく、メリエスの名声はさらに高まった。 1904年製作の最大の作品は『不可能を通る旅(英語版)』で、『月世界旅行』に似ており、大洋の中や太陽など世界中を旅する映画である。メリエスは Institute of Incoherent Geography の技術者 Mabouloff の役で、『月世界旅行』の教授のような役回りである。Mabouloff は一行を Automobouloff という乗り物での旅に誘う。ある男はアルプス山脈の最高峰へと旅するが、その乗り物はそのまま昇り続け、太陽にまで到達する。太陽には『月世界旅行』での月のように顔があり、その乗り物を一飲みにする。結局地球に戻って潜水艦で大洋の中を進み、出発点に戻って歓迎される。24分の作品で、これも当たった。映画評論家 Lewis Jacobs は「この映画はメリエスの全才能を表している…彼のトリックの複雑さ、機械装置を持つ彼の資力、設定の想像性、豪華な背景画により、その当時の最高傑作となった」と評している。1904年、フォリー・ベルジェールの監督 Victor de Cottens はメリエスに彼のレビューの一部として上映する映画の特殊撮影を依頼した。その結果完成したのがベルギー王レオポルト2世を皮肉った Le Raid Paris-Monte Carlo en deux heures である。この映画はフォリー・ベルジェールでまず上映され、その後メリエスがスター・フィルムの作品として販売した。1904年末、トーマス・エジソンは Paley & Steiner の製作した映画がエジソンの製作した映画とストーリー・登場人物・撮影までそっくりだとして訴えた。エジソンは理由を示さずに、パテやスター・フィルムも同時に訴えている。Paley & Steiner は示談を選び(後にエジソンが買収)、この訴えが法廷に持ち込まれることはなかった。 1905年、Victor de Cottens からシャトレ座でのレビュー Les Quarte Cent Coups du diable への協力を依頼された。メリエスはそのために2つの短編映画 Les Voyage dans l'espace と Le Cyclone を製作し、レビュー全体の脚本にも協力した。1905年はまたジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン生誕100周年でもあり、ロベール=ウーダン劇場でも記念公演を行い、メリエスも数年ぶりに舞台で新たなマジック Les Phénomènes du spiritisme を披露した。同じころモントルイユのスタジオの増改築を行い、電気の照明を設置し、2つ目の舞台を作り、衣装も買い増した。1905年は22作品を製作しており、冒険もの『千一夜物語』、リップ・ヴァン・ウィンクルの伝説と Robert Planquette のオペラに基づいたおとぎ話 La Légende de Rip Van Winkle などがある。1906年に製作したのは18作品で、Les Quarte Cent Coups du diable や La Fée Carabosse ou le poignard fatal などがある。メリエスを有名にしたおとぎ話系の映画の人気は低下しはじめており、犯罪ものや家族ものといった新たなジャンルを模索しはじめた。アメリカのガストン・メリエスは、以前の3作品(『シンデレラ』、『青ひげ』、『ロビンソン・クルーソー』)の価格を下げなければならなくなった。1905年末には、ガストンはスター・フィルムの全作品の価格を20%値下げして、売り上げを回復させた。
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