撮影までとは? わかりやすく解説

撮影まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 08:17 UTC 版)

トラ・トラ・トラ!」の記事における「撮影まで」の解説

アメリカ側日本双方場面別個に撮影して組み合わせる方針であったため、日本シークエンス監督に誰を起用するかという意見求められエルモ迷わず黒澤明の名をあげた。この話を聞いた当時黒澤明それほど乗り気でなかったというが、東宝の手離れて黒澤プロダクション(以下黒澤プロ)を完全に独立させた直後という事情もあり、ハリウッド組んで大作を撮るという話は渡りに船でもあった。黒澤当時力をいれて進めていた『暴走機関車』の製作が一時中断になったことから『トラ・トラ・トラ!』の製作にのめりこんでいく。 1967年4月28日東京プリンスホテルで製作発表があり、黒澤エルモ・ウィリアムズ源田實参院議員らが出席エルモから製作スケジュール説明があり、この時は撮影開始1968年初め1968年末に完成し1969年初めに公開発表された。つまりここから公開予定1年半上伸びたということになる。 1967年5月26日アメリカ側監督ドキュメンタリー映画出身で『ミクロの決死圏『海底二万哩』などで知られるリチャード・フライシャー起用決定した。また配役についてスター中心主義をとらず、脇役強力な俳優固めるという方針で、6月からロケ地探し始めると報道された。 日米開戦史を掘り起こすため、当時関係者5人が技術顧問迎えられた。軍事関係源田實外交関係平沢和重航空関係園川亀郎、艦隊関係・渡辺安次造船関係・福井静夫で、脚本作成協力した黒澤膨大な資料収集した上で小国英雄菊島隆三共同脚本執筆し1967年5月3日準備稿虎・虎・虎』を完成させた。脚本初稿当時スタッフ戦時知らないだろうという考えから、歴史的背景説明が非常に多くそのまま映画化すれば7時間を超える膨大な量で電話帳ぐらいの厚さがあったという。 また、黒澤誘い日本シーン音楽担当として武満徹参加することとなった1967年7月ハワイエルモ黒澤フライシャーらが一堂会して製作のための話し合い行ったが、黒澤フライシャー好まず、ほとんど成果を見なかった。結局プロデューサーエルモ脚本決定稿をまとめあげたが、黒澤自分脚本部分カット多かったことが気に入らなかった。ここで製作が行詰るかに見えたが、社長ザナックが自ら来日して黒澤訪ね黒澤訪米してザナック会談行ったことで状況好転したアメリカでは撮影用に多く軍用機手配され日本でも福岡県芦屋町航空母艦赤城戦艦長門巨大なオープンセット製作されたことで製作は順調に進んだ一時製作が延期になっていたが1968年11月からの日本撮影再開予定に伴い1968年6月27日毎日新聞夕刊に「日本監督東映佐藤純弥決まった。まだ7本目だがダイナミックな演出振り白羽の矢立ったと書かれ、この記事では佐藤は第2班監督ではなく、単に日本側の監督と書かれている佐藤がB班監督抜擢され経緯は、佐藤デビュー作陸軍残虐物語』を気に入ったからと噂されるが、佐藤は「確かめたことはない」と話している。佐藤山本五十六にも真珠湾攻撃にも興味はなく、黒澤一緒に仕事ができるという理由だけでオファーを受け、東映本数契約交わしていたが、会社から「行ってこい」と言われ参加した。また「出演者無名一般人起用する方針で、いま選考中。山本五十六役には応募者が殺到している」と書かれている

※この「撮影まで」の解説は、「トラ・トラ・トラ!」の解説の一部です。
「撮影まで」を含む「トラ・トラ・トラ!」の記事については、「トラ・トラ・トラ!」の概要を参照ください。


撮影まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:15 UTC 版)

ハウス (映画)」の記事における「撮影まで」の解説

大林映画製作の話を持ちかけたのは、東宝映像企画室長角田健一郎であった。時は1975年新し企画探していて、東宝スタジオCF撮影行なっていた大林に目をつけていたという。大林最初は、檀一雄の『花筐』を持ち込んだ手応えがなく、続いて大林持ち込んだ本作脚本見た松岡功東宝企画部長(当時)は「こんな無内容馬鹿馬鹿しいシナリオ初め見ました。でも私が理解できるいいシナリオはもう誰も観てくれません。だから私には理解不可能なシナリオそのまま映画にしてくれませんか」と大林にいったと言い企画としては1975年東宝会議通っていた。当時オカルト映画パニック映画カンフー映画などの洋画日本興行界を席巻していたが、そうしたシンプルな娯楽映画生真面目日本の映画会社企画部からは生まれて来なかった。東宝長く映画部門統括していた藤本真澄プロデューサーが、児玉隆也映画の製作中止させられ揉め1975年退任副社長になった松岡功中心として企画委員会設立され、その新体制のもとで生まれた企画が『HOUSE』だった。 しかしノースター+無名監督映画東宝番線簡単に乗るはずもなく、撮影所助監督経験していない大林監督することに、当時東宝助監督たちも反対した。CM撮影では東宝撮影所にいつも出入りしていたのに、映画を撮るとなると話は別で、撮影所入口ですれ違った恩地日出夫に「大林さんぼくらの職場荒らさないで下さいね!」と釘を刺された。それに対し、「我々が映画作っても、ヒットしない。ここは、外部の人にやらせて、どれだけのものができるかを知ろうではないか」と説得したのが、前年末に堀川弘通とともにフリーとなったものの東宝監督としては依然重鎮であった岡本喜八であった1976年6月には馬場男名義による監督作品として準備稿台本完成し製作についての報道もされた。『キネマ旬報1976年8月上旬号に以下の記事載る原文のまま)。 「 東宝映像製作『HOUSE』で、日本にもテレビCM畑から初めて"映画監督"が誕生する大林宣彦37歳。―"CM界のクロサワ"の異名を持つ大林監督劇映画への起用考えたのは東宝だけではない。『JAWSジョーズのような面白い話映画を、という東宝映像角田健一郎プロデューサー申し入れが公式のものでは一番早かった。『CM外国大物スターを十分使い切れているうえ、訴求対象鮮明に出している。映画でもヤング訴求対象鮮明に出せるのでは...。既成映画監督持っていないザン新な演出期待する』というのが東宝大林監督起用の弁だ。 『HOUSE』の企画は(1976年5月企画会議珍しく全員一致で、映画化決まったという。脚本大林宣彦桂千穂とりあえ週刊誌劇画連載小林亜星テーマ曲ムード盛り上げて1976年秋に撮入来年1977年3月公開予定大林監督は『現在の映画のつまらなさは、監督側に映画持って行き過ぎるからで、監督作品ごとに変身化身する必要があるではないか』という主張から、今回は"馬場毬男"の名で演出するという。沈滞しきっている邦画界に、同監督登場いろいろと話題を呼ぶことは確かだ。 」 また『ロードショー1976年9月号には(原文のまま) 「 大竹宣彦という人をご存知か。CF界の巨匠プライベート・フィルム先駆者として知る人ぞ知る人物だ。ブロンソンドヌーブリンゴ・スターCFを手がけた第一人者。『伝説午後・いつか見たドラキュラ』のプライベート映画傑作誉れ高い高林陽一監督とは10年来映画仲間だ。その大林監督が、初め商業映画取組む山間洋館にやってきた7人の少女家具食い殺してしまうというオカルト映画の『HOUSE』(東宝配給)。企業外からの殴り込みが、沈滞気味の邦画界にどんな波紋投げかけるか、楽しみな作品だ。 」 などと書かれている。 しかしすぐに製作開始はならず宙吊り状態が続いた大林映画化されるまでが一つ挑戦考え作品自分で売るという気持ちから、監督同時にプロデュース持ち、「『HOUSE映画化実験するキャンペーン」と銘打ってCM製作で付き合いのあったテレビラジオ自身売り込み、『11PM』など積極的にテレビ出演インタビュー応じタレント活動のような事をやった。前年ラジオドラマ版にも出演した松原愛のみ、大林から直接出演オファーし、残りの6人はCM関係の代理店知人呼びかけて、出演する女の子推薦してもらってオーディション行い200人の中から選んだ池上季実子以外は全員新人平均年齢18歳だった。当時一番売れていた週刊少年マガジン宮原照夫編集長売り込みグラビアレオタード姿の7人を掲載し"ハウスガールズ"と名づけ売り出した水着姿の7人を登場させ大磯ロングビーチキャンペーン行ったり、日比谷七夕まつりで、車に何人乗れるかというイベントをやったり、『HOUSE』のイラスト入り大きな名刺作り、会う人ごと渡した。しかし映画製作はなかなか進まずプロモーション2年要したニッポン放送オールナイトニッポン生放送されラジオドラマオールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作進めてもらえないため、映画製作より先にHOUSEブーム起こしてやろうと大林仕掛けたのだった大林自身「『HOUSE』での仕事は八割がプロデューサーとしてのもので監督としての仕事全体二割くらいだった」と述べている。先のHOUSE』のイラスト入り名刺見た角川春樹は「こういうことをしている監督がいるのか」と興味持った話している。既存映画界とは別のところで仕事をしていた大林角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けていた。東宝富山省吾は、当時宣伝部の一番の若手であったが、富山から「あれはつまり、一人クロスメディアでしたねぇ」と言われたという。ラジオドラマオールナイトであるにも関わらず、高い聴取率挙げ三大新聞がこの評判報道したことが最終的に映画の製作開始へ至る。当初は『東宝チャンピオンまつり』の一本として公開することも検討されていた。 "77東宝ラインアップ"として終り方に記載され映画ジャーナリスト1977年映画製作されるのかという認識持った。この記載ではスタッフだけで、出演者記されておらず、内容紹介として「果てしない荒野ポツン建っている朽ちかけた西洋館は、そこを訪れ少女待っていた。しの館は少女を喰べては、老い防いでいたのだったCF界の巨匠大林宣彦鮮烈な映像引っ下げてオカルトブーム頂点挑む」「主役とも云うべき少女役には中学一~三年生出演する」などと書かれていた。

※この「撮影まで」の解説は、「ハウス (映画)」の解説の一部です。
「撮影まで」を含む「ハウス (映画)」の記事については、「ハウス (映画)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「撮影まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「撮影まで」の関連用語

撮影までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



撮影までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトラ・トラ・トラ! (改訂履歴)、ハウス (映画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS