撮影まで
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アメリカ側、日本側双方の場面を別個に撮影して組み合わせる方針であったため、日本側シークエンスの監督に誰を起用するかという意見を求められたエルモは迷わず黒澤明の名をあげた。この話を聞いた当時の黒澤明はそれほど乗り気でなかったというが、東宝の手を離れて黒澤プロダクション(以下黒澤プロ)を完全に独立させた直後という事情もあり、ハリウッドと組んで大作を撮るという話は渡りに船でもあった。黒澤も当時力をいれて進めていた『暴走機関車』の製作が一時中断になったことから『トラ・トラ・トラ!』の製作にのめりこんでいく。 1967年4月28日、東京プリンスホテルで製作発表があり、黒澤、エルモ・ウィリアムズ、源田實参院議員らが出席。エルモから製作スケジュールの説明があり、この時は撮影開始を1968年初め、1968年末に完成し、1969年初めに公開と発表された。つまりここから公開予定が1年半以上伸びたということになる。 1967年5月26日、アメリカ側の監督にドキュメンタリー映画出身で『ミクロの決死圏』『海底二万哩』などで知られるリチャード・フライシャーの起用が決定した。また配役についてスター中心主義をとらず、脇役を強力な俳優で固めるという方針で、6月からロケ地探しを始めると報道された。 日米開戦史を掘り起こすため、当時の関係者5人が技術顧問に迎えられた。軍事関係に源田實、外交関係・平沢和重、航空関係・園川亀郎、艦隊関係・渡辺安次、造船関係・福井静夫で、脚本作成に協力した。黒澤は膨大な資料を収集した上で、小国英雄、菊島隆三と共同で脚本を執筆し、1967年5月3日に準備稿『虎・虎・虎』を完成させた。脚本の初稿は当時のスタッフは戦時を知らないだろうという考えから、歴史的背景や説明が非常に多く、そのまま映画化すれば7時間を超える膨大な量で電話帳ぐらいの厚さがあったという。 また、黒澤の誘いで日本側シーンの音楽担当として武満徹も参加することとなった。 1967年7月にハワイでエルモ・黒澤・フライシャーらが一堂に会して製作のための話し合いを行ったが、黒澤はフライシャーを好まず、ほとんど成果を見なかった。結局プロデューサーのエルモが脚本の決定稿をまとめあげたが、黒澤は自分の脚本部分のカットが多かったことが気に入らなかった。ここで製作が行き詰るかに見えたが、社長のザナックが自ら来日して黒澤を訪ね、黒澤も訪米してザナックと会談を行ったことで状況は好転した。 アメリカでは撮影用に多くの軍用機が手配され、日本でも福岡県の芦屋町に航空母艦赤城と戦艦長門の巨大なオープンセットが製作されたことで製作は順調に進んだ。 一時製作が延期になっていたが1968年11月からの日本側撮影再開予定に伴い、1968年6月27日の毎日新聞夕刊に「日本側監督に東映の佐藤純弥が決まった。まだ7本目だがダイナミックな演出振りに白羽の矢が立った」と書かれ、この記事では佐藤は第2班監督ではなく、単に日本側の監督」と書かれている。佐藤がB班監督に抜擢された経緯は、佐藤のデビュー作『陸軍残虐物語』を気に入ったからと噂されるが、佐藤は「確かめたことはない」と話している。佐藤は山本五十六にも真珠湾攻撃にも興味はなく、黒澤と一緒に仕事ができるという理由だけでオファーを受け、東映と本数契約を交わしていたが、会社から「行ってこい」と言われ参加した。また「出演者は無名の一般人を起用する方針で、いま選考中。山本五十六役には応募者が殺到している」と書かれている。
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撮影まで
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大林に映画製作の話を持ちかけたのは、東宝映像企画室長の角田健一郎であった。時は1975年。新しい企画を探していて、東宝スタジオでCF撮影を行なっていた大林に目をつけていたという。大林は最初は、檀一雄の『花筐』を持ち込んだが手応えがなく、続いて大林の持ち込んだ本作の脚本を見た松岡功東宝企画部長(当時)は「こんな無内容な馬鹿馬鹿しいシナリオを初めて見ました。でも私が理解できるいいシナリオはもう誰も観てくれません。だから私には理解不可能なシナリオをそのまま映画にしてくれませんか」と大林にいったと言い、企画としては1975年に東宝の会議を通っていた。当時はオカルト映画、パニック映画、カンフー映画などの洋画が日本の興行界を席巻していたが、そうしたシンプルな娯楽映画は生真面目な日本の映画会社の企画部からは生まれて来なかった。東宝は長く映画部門を統括していた藤本真澄プロデューサーが、児玉隆也の映画の製作を中止させられて揉め1975年に退任。副社長になった松岡功を中心として企画委員会が設立され、その新体制のもとで生まれた企画が『HOUSE』だった。 しかしノースター+無名監督の映画が東宝の番線に簡単に乗るはずもなく、撮影所の助監督を経験していない大林が監督することに、当時の東宝の助監督たちも反対した。CM撮影では東宝撮影所にいつも出入りしていたのに、映画を撮るとなると話は別で、撮影所の入口ですれ違った恩地日出夫に「大林さん、ぼくらの職場を荒らさないで下さいね!」と釘を刺された。それに対し、「我々が映画を作っても、ヒットしない。ここは、外部の人にやらせて、どれだけのものができるかを知ろうではないか」と説得したのが、前年末に堀川弘通とともにフリーとなったものの東宝系監督としては依然重鎮であった岡本喜八であった。 1976年6月には馬場毬男名義による監督作品として準備稿台本が完成し製作についての報道もされた。『キネマ旬報』1976年8月上旬号に以下の記事が載る(原文のまま)。 「 東宝映像製作『HOUSE』で、日本にもテレビのCM畑から初めて"映画監督"が誕生する。大林宣彦、37歳。―"CM界のクロサワ"の異名を持つ大林監督に劇映画への起用を考えたのは東宝だけではない。『JAWS・ジョーズ』のような面白い話で映画を、という東宝映像・角田健一郎プロデューサーの申し入れが公式のものでは一番早かった。『CMで外国の大物スターを十分使い切れているうえ、訴求対象を鮮明に出している。映画でもヤングの訴求対象を鮮明に出せるのでは...。既成の映画監督が持っていないザン新な演出に期待する』というのが東宝の大林監督起用の弁だ。 『HOUSE』の企画は(1976年)5月の企画会議で珍しく全員一致で、映画化が決まったという。脚本、大林宣彦、桂千穂。とりあえず週刊誌に劇画で連載。小林亜星のテーマ曲でムードを盛り上げて(1976年)秋に撮入。来年(1977年)3月公開の予定。大林監督は『現在の映画のつまらなさは、監督側に映画を持って行き過ぎるからで、監督は作品ごとに変身、化身する必要があるのではないか』という主張から、今回は"馬場毬男"の名で演出するという。沈滞しきっている邦画界に、同監督の登場はいろいろと話題を呼ぶことは確かだ。 」 また『ロードショー』1976年9月号には(原文のまま) 「 大竹宣彦という人をご存知か。CF界の巨匠、プライベート・フィルムの先駆者として知る人ぞ知る人物だ。ブロンソン、ドヌーブ、リンゴ・スターのCFを手がけた第一人者。『伝説の午後・いつか見たドラキュラ』のプライベート映画は傑作の誉れ高い。高林陽一監督とは10年来の映画仲間だ。その大林監督が、初めて商業映画に取組む。山間の洋館にやってきた7人の少女を家具が食い殺してしまうというオカルト映画の『HOUSE』(東宝配給)。企業外からの殴り込みが、沈滞気味の邦画界にどんな波紋を投げかけるか、楽しみな作品だ。 」 などと書かれている。 しかしすぐに製作開始とはならず、宙吊り状態が続いた。大林は映画化されるまでが一つの挑戦と考え、作品を自分で売るという気持ちから、監督と同時にプロデュース権を持ち、「『HOUSE』映画化を実験するキャンペーン」と銘打って、CM製作で付き合いのあったテレビやラジオに自身を売り込み、『11PM』など積極的にテレビ出演やインタビューに応じるタレント活動のような事をやった。前年のラジオドラマ版にも出演した松原愛のみ、大林から直接出演オファーし、残りの6人はCM関係の代理店や知人に呼びかけて、出演する女の子を推薦してもらってオーディションを行い、200人の中から選んだ。池上季実子以外は全員新人で平均年齢は18歳だった。当時一番売れていた週刊少年マガジンの宮原照夫編集長に売り込み、グラビアにレオタード姿の7人を掲載し"ハウスガールズ"と名づけ売り出した。水着姿の7人を登場させ大磯ロングビーチでキャンペーンを行ったり、日比谷の七夕まつりで、車に何人乗れるかというイベントをやったり、『HOUSE』のイラスト入りの大きな名刺を作り、会う人ごとに渡した。しかし映画製作はなかなか進まず、プロモーションに2年を要した。ニッポン放送「オールナイトニッポン」枠で生放送されたラジオドラマ『オールナイトニッポン特別番組 ラジオドラマ ハウス』は、映画製作が進めてもらえないため、映画製作より先に『HOUSE』ブームを起こしてやろうと大林が仕掛けたものだった。大林自身「『HOUSE』での仕事は八割がプロデューサーとしてのもので監督としての仕事は全体の二割くらいだった」と述べている。先の『HOUSE』のイラスト入り名刺を見た角川春樹は「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持ったと話している。既存の映画界とは別のところで仕事をしていた大林と角川は、ほぼ同時期にそれぞれの方法で「メディアミックス」を仕掛けていた。東宝の富山省吾は、当時宣伝部の一番の若手であったが、富山から「あれはつまり、一人クロスメディアでしたねぇ」と言われたという。ラジオドラマがオールナイトであるにも関わらず、高い聴取率を挙げ、三大新聞がこの評判を報道したことが最終的に映画の製作開始へ至る。当初は『東宝チャンピオンまつり』の一本として公開することも検討されていた。 "77東宝ラインアップ"として終りの方に記載され、映画ジャーナリストは1977年に映画が製作されるのかという認識を持った。この記載ではスタッフだけで、出演者は記されておらず、内容紹介として「果てしない荒野にポツンと建っている朽ちかけた西洋館は、そこを訪れる少女を待っていた。しの館は少女を喰べては、老いを防いでいたのだった。CF界の巨匠大林宣彦が鮮烈な映像を引っ下げてオカルトブームの頂点に挑む」「主役とも云うべき少女役には中学一~三年生が出演する」などと書かれていた。
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