撮影の改良(1年目から2年目以降へ)
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「銭形平次 (大川橋蔵)」の記事における「撮影の改良(1年目から2年目以降へ)」の解説
撮影は、最初の1年間はアフレコ(撮影が終わってからフィルムに合わせて台詞や音を入れる撮影方法)であった。そのため台詞が単調になり、橋蔵としてはどうも気分がのらず、シンクロにしたいと主張。しかし、東映テレビブロの現況では当時200万から300万する撮影機を購入するわけにはいかず、そっと自分で買おうとまで思い詰めた。幸い、東映社長・大川博の決断で橋蔵の希望が入れられる事になった。これがきっかけで東映テレビプロの撮影はシンクロに切り替わり、その他の設備も色々改良が加えられ撮影条件は向上した。絶えずフジテレビやスポンサーと検討し、脚本家の人数も増やし、万全な体制で2年目に突入した。 監督は、最初は佐々木康と長谷川安人がメインだった。初めは2話を1週間で撮っていたが、橋蔵が忙しくなり、2話を4日間で撮るようになった。やがて佐々木が高齢で撮影に困難が生じ、新しい監督として荒井岱志が抜擢された。荒井は橋蔵に「僕の顔のアップをキレイに、これが日本一の顔だ、と撮ってほしい。銭形は僕が中心なんだから、僕が立つように。それを心がけてくれればいいですよ」と言われた。荒井は888話中90話を演出した。 平次のコスチュームは、初めは長谷川と同じ腹掛けを付けていたが、2年目からは普通の町人スタイルに変更した。 橋蔵が辞め時を悩んだのは3年目が終わった時だった。また、10年目を迎える際に橋蔵は「視聴率が良かったので延長に延長を重ね、結局17回も延長してしまった。3年目が終わった時は悩みました。これまでは橋蔵の平次だったけど、これ以上続けると橋蔵そのものが平次になってしまう。イメージが固まるのは役者に取っていいのか、悪いのか?」とその決断を迫られ、「以後はそうであってもいい」と平次になりきる道を選んだ。橋蔵は「こうなったら10年続けようと思いました。10年たったあとはもうがむしゃらです」などと述べていた。
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