撮影の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:56 UTC 版)
ストーリー中盤の製鉄所のシーンで、早朝に製鉄所の制服に身を包んだ作業員達が、大挙して自転車で作業場へと向かう風景が描かれている。中国と混同しているのではないかと言われるこの場面に関して、リドリー・スコットは、バイクを追跡するも道を阻まれ苛立つシーケンスを演出するために意図的に設定した場面であり、決して中国と混同したものではないと語っている。製鉄所などの広大な敷地をもつ作業所内では自転車の利用は珍しくはないが、現実には連絡バスや自動車の利用も多く、出退勤時に自転車であふれかえるような光景は見られない。 リドリー・スコットは『ブレードランナー』で描かれていたような雑多で猥雑なイメージを日本に求めていたが、実際の日本はかなり清潔な街並みであったために驚いたという。そのためにロケーションはそれらを満たすであろう新宿歌舞伎町を当初予定地に挙げていた。 撮影にあたっては、日本側の警察による交通規制の協力がほとんど得られない事情から、ロケ地調整に苦労した。当初の監督の希望ロケーションは東京の新宿歌舞伎町であったが、警察との折衝の結果不可能となり、比較的警察協力の融通が利く大阪、関西方面に変更された。10週間の撮影を計画したものの、各所で期待した協力が得られなかったために5週間で切り上げて帰国した。広島市もロケの候補になっていた。 当時の日本にはフィルム・コミッションが存在しなかったため、本作の大阪ロケはアメリカの制作側が日本側の関係者と直接交渉せざるを得ず、トラブルが多発する事態となったことが後に明らかになっている。その結果、親日家のリドリー・スコットが激怒。最終的に「二度とこの地(日本)では映画を撮らない」と激怒するところまで追い込まれた。本作の撮影で発生した多数のトラブルにより、ハリウッドで「日本は規制が多く、映画ロケがまともにできない環境の国である」という悪評が広まった結果、その後28年間の長きにわたり、海外の大作映画(特にハリウッド映画)の大阪ロケは全く実施されなかった。この問題が、後に大阪が日本初のフィルム・コミッションを発足させるきっかけとなった。詳細は「フィルム・コミッション」の記述を参照。 上記の理由により、日本ロケで撮影できなかった部分は、アメリカ国内各所でロケを行った。ラストシーンのニックと佐藤の一戦の舞台であるブドウ畑農場は日本国内という設定ではあったが、日本の農地の風景ではない。アメリカの裕福な日本文化マニアの外国人の私有地(サンフランシスコ郊外ということが『SmaSTATION6』の松田優作特集で公表された)を借りて撮影された。山林の中に立っている標識の漢字は外国人が適当に書いたもので場所が国外ということを分からせてくれる。なお、ブドウ畑でのニックと佐藤の格闘シーンではニックのアップの場面で緑色ジャケットのスタッフが一瞬映り込んでしまったカットが採用されている。また,ニックと佐藤の決闘シーンでは,最初のカットで,佐藤が空手の左構え(オーソドックススタイル)であるのに,次のカットでは右構え(サウスポー(逆体構え)になっている。 このシーンで登場する、佐藤が乗ってきた黒いメルセデス・ベンツ・560SEL(リヤスポイラー・ルーフスポイラー装着)ともう1台のSクラスセダンは、ダミーの「大阪」ナンバーをつけた北米輸出仕様車である。 他にも強制送還されるニックが飛行機から抜け出す空港のシーン、チャーリーが佐藤一味に殺される地下駐車場のシーン、菅井の自宅豪邸、クラブ・ミヤコのシーン、佐藤のアジトシーンは全てアメリカで撮影されている(後者2つについては主要キャスト以外の日本人が英語訛りの日本語を話しているためそれがわかる)。 ケイト・キャプショーの登場場面のほとんどは米国で、カメラの切り替えでいかにも大阪でロケを行っているように見せている。唯一日本で撮影したシーンが使われているのは、今はなき心斎橋(地名ではなく、かつての長堀川域に実在し、1910年に2代目として架橋され、同川が埋め立てられ長堀橋筋となって以降の1964年から1995年まで歩道橋として再利用されていた橋。2014年現在は心斎橋筋通路に欄干部が再々利用されている)の上でホームレスの男性に「これでパンでも買って」というシーンである。加えて菅井宅は『ブレードランナー』のデッカード宅と同じロサンゼルスのエニス・ブラウン邸である(特徴的なフランク・ロイド・ライト作のブロック壁で判別可能)。 佐藤の愛人をニックと松本が尾行するシーンは神戸で撮影されている。神戸ナンバーの車だらけの中、佐藤の部下、梨田が乗ったタクシーだけは「なにわ」ナンバーだった。 銀行の支店や駅に「元町」と表示されている(撮影に使われた銀行の出入り口は旧協和銀行元町支店で、統廃合され現存しない)。 明らかに神戸市バスとわかるバスが映っている。 意味不明な街頭演説の音声(「社会党の今村マサコでございます…」と聞き取れる)が流れているが、なぜか英語訛りがある。 DVD特典のメイキングによれば、クライマックスシーンは2バージョン撮影されている。1つ目は「ニックが佐藤を殺すバージョン」。しかし「ニックが何かを学んだなら殺さないはず」と考えた監督たちは、「殺さず連行するバージョン」も撮影した。監督の心には「殺せ」という叫びも聞こえたが、殺せば物語は行き詰る上、佐藤は死なせるには魅力的すぎると思え、両方とも撮影して後で決めることにしたという。警察に連行されるシーンは上映版では杭をカメラフレームに収めたカットから警察署内の扉を開ける場面に切り替わるが、第一試写版では警察署内の廊下を通過して階段を上がり扉を開ける流れが撮影され、終始ふてぶてしい笑顔を浮かべる佐藤が収録されており、一般公開前のプレス用資料には、これらの場面スチルが配布されていた。 米国のスタッフを驚かせた逸話として、佐藤がバイクに乗るシーンは全てスタント無しで松田優作本人が演じたことが挙げられる。しかし松田は一連の『遊戯シリーズ』にてスタントを全て本人がこなしており、松田はこれを当然と考えており、自分のやり方が正しかったと後に述懐している。 佐藤がバイクに乗るシーンで着用しているゴーグル風のサングラスは、日本側で調達された1987年のジャン=ポール・ゴルチエ製コレクションである。市販モデルは平面レンズタイプであったが、レンズに映り込む光を複雑にしたいと監督から要請があり、球面レンズに交換された。 大阪府警の機動隊員はジュラルミンの楯ではなく、狙撃用のライフルを持っていた。 ラストの空港のシーンで、松本がニックに「お子さんに」と渡す箱の包装は、当時関西圏で中堅の玩具チェーン店「いせや」のものであるので、中身は玩具と想像できる。公開当時、いせや常連客の間で話題になり、問い合わせがよくあったという。ちなみに逆にニックが松本に渡した箱の包装は阪急百貨店のものである(Hankyuの英字ロゴが確認できる)。 マフィアや日本人の偽札彫金師らのいるバーに登場する松田優作の最初の仕草は、人形浄瑠璃の『義経千本桜』をイメージしたものであるらしい。オリエンタルで怪し気な雰囲気が一瞬で表現できるからとの理由である。店内でバッグに使われていた楽曲はボビー・ダーリンの「ビヨンド・ザ・シー」である。
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撮影の背景
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「アラモ (1960年の映画)」の記事における「撮影の背景」の解説
ジョン・ウェインがアラモの戦いに関する映画の製作に乗り出したのは1945年であった。彼は脚本家ジェームズ・エドワード・グラント(英語版)を雇い、脚本の準備を始めた。この折、ジョン・フォードの息子であるパット・フォードもアシスタントとして雇われている。しかし脚本がほとんど完成する頃になって、撮影予算の上限300万ドルをめぐってウェインとリパブリック映画社長ハーバート・イェーツ(英語版)が衝突した。結局、ウェインとリパブリック映画の間には大きな確執が生まれ、ウェインが去ったことで映画の企画自体も中止されてしまった。この時に用意された脚本は後に書きなおされ、1955年に『アラモの砦』(The Last Command)として映画化されている。
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