反体制派の抑圧
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「ユーリ・アンドロポフ」の記事における「反体制派の抑圧」の解説
アンドロポフは、KGB議長の任にあった間、「人権のための闘争はソビエトの国家基盤を弱体化させる帝国主義の陰謀である」と主張し、反体制派の弾圧に取り組んだ。1967年7月3日にアンドロポフはイデオロギーに関する政治犯に対処するためKGBに第5総局を設立する提案をし、同月末に設立された。1969年1月のブレジネフ暗殺未遂事件後、アンドロポフは、拘束された狙撃犯ヴィクトル・イリインの尋問を主導。イリインを「狂人」と断定し、精神病院に強制収容させた。同年4月29日、アンドロポフは党中央委員会に対し、反体制派から「ソビエト政府及び社会主義秩序」を守るための精神病院のネットワーク構築計画を提出。さらに、アンドロポフの提案が聞き入れられる形で、反体制派との闘争に精神医学が利用されるようになった。その後、数十人の反体制派が「精神病」を口実にして精神病院に収容され、さらに数十人がソ連国外に追放された。その中で、アレクサンドル・ソルジェニーツィンを国外追放とし、アンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ政権時代の後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。汚職の摘発にも辣腕をふるい、ブレジネフの親族の逮捕にも大鉈を振るった。KGB議長が政治局に入ることを禁止したフルシチョフの措置を解禁させたブレジネフであったが、その措置によって強大な権力を得たアンドロポフに求心力を削がれていくという皮肉な結果になっていった。 1975年7月、アンドロポフはロシア皇帝だったニコライ2世とその家族が1918年7月に殺害されるまで幽閉されていた家が聖地化していた現状を危惧し、ブレジネフに同家の撤去を進言。政治局の承認により、1977年9月にスヴェルドロフスク州党第一書記のボリス・エリツィンの指揮の下で取り壊された。 「イパチェフ館#館の解体」も参照 アンドロポフの反体制派抑圧計画の中には、1961年に亡命したダンサーのルドルフ・ヌレエフを殺傷する計画も含まれていた。一方、フョードル・クラコフやピョートル・マシェーロフらソ連の政治家の突然死の黒幕はアンドロポフであると考える人もいる。2013年に機密解除された文書には、KGB議長たるアンドロポフがジョン・レノンの死(1980年12月)を追悼する無許可の集会の開催を防ぐよう指示した旨が記されている。
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