停滞の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 16:32 UTC 版)
コスイギン改革の挫折後、1970年代はソ連も軍事的に関与した中東戦争による2度の石油危機で世界最大の産油国として莫大な外貨を獲得できたが、西側諸国からの機械、穀物や奢侈品の輸入に浪費されて新規事業の開拓や技術開発がほとんど進まず、西側と製品の質の点で大きく水を開けられた。また、レオニード・ブレジネフ政権の長期化で共産党内の汚職が進み、国有企業は帳簿上の生産数と実態との乖離が大きくなった。フルシチョフ失脚の直接の原因となった農業問題でも小麦やライ麦、大麦の生産量は世界最高だったものの、70年代からの凶作と旱魃で大量の穀物を北米から緊急輸入する必要が生じ、国際市場で大量の穀物買い付けを行って高騰させたことは大穀物強盗と呼ばれた。これが冷戦における両国の力関係にも影響を与えた。この時期には環境破壊も深刻化していったが、官僚制で硬直化した政府は有効な対策を立てられなかった。 この時期は、消費財や食料の輸入が膨らみ対外債務が急速に増大する一方、東ヨーロッパ諸国への安価な天然資源供給や発展途上国への経済支援は政治的・外交的理由で続ける必要があり、政府にとっては大きな負担になった。1979年にはアフガニスタン侵攻を開始し、軍事費の膨張と西側諸国との関係悪化はソビエト経済を一層苦しめた。 1982年、ブレジネフの死でソビエト連邦共産党書記長になったユーリ・アンドロポフは国内の綱紀粛清を図り、ウォッカの値上げによる酒類追放で労働者の生産性向上を目指したが、本格的な経済改革に着手する前に死去した。その後のコンスタンティン・チェルネンコは、元来保守派である上に病弱なこともあり、再びブレジネフ時代のような経済無策に陥った。
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