共産党保守派の総帥として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 20:33 UTC 版)
「エゴール・リガチョフ」の記事における「共産党保守派の総帥として」の解説
リガチョフは、元来、ゴルバチョフらとともにアンドロポフによって登用されたことからわかるように、ブレジネフ期の「停滞の時代」を改革する必要性を認識していた。しかし、ゴルバチョフがペレストロイカ政権当初に掲げた、急進的改革の姿勢とは相違し、市場経済の批判、党官僚の既得権益擁護など、改革に対しては次第に保守的になり、党内の保守派の代表者となっていった。ゴルバチョフ政権初期の反アルコールキャンペーンの主導に代表されるように、リガチョフの政治姿勢は強権的、硬直的ですらあった。 1987年以降リガチョフは保守的論調を強め、急進改革派と事あるごとに対立していくようになっていった。レニングラードのニーナ・アンドレーエワ(ロシア語版、英語版)(後の全連邦共産党ボリシェヴィキ党首)が執筆した反ペレストロイカ論文(ロシア語版)支持や、スターリン批判、新思考外交への反対、ボリス・エリツィンとの確執などが挙げられる。1988年秋の党人事異動でイデオロギー担当を外され、農業政策担当、党中央委員会農業委員会議長に任命される。これは、事実上の左遷であった。 1990年7月の第28回ソ連共産党大会で、ゴルバチョフは書記長制を廃止し、党議長、副議長制を導入しようとした。党議長、副議長制に対してリガチョフは、先に導入された大統領制とともに共産党体制を崩壊せしめるものとして批判した。結局、党議長制は撤回され、書記長の下に副書記長職を新設することとなった。ゴルバチョフは、ウクライナ共産党第一書記のウラジーミル・イワシコを推薦したのに対抗して、エゴール・リガチョフも立候補した。投票の結果、イワシコがリガチョフを大差で破って当選した。これは、代議員たちがリガチョフが副書記長に選出されることによって、改革派と保守派に共産党が分裂することを懸念したためである。ゴルバチョフはリガチョフを党の役職から外すことに成功するが、さらに党保守派からは、新たに設立されたロシア共産党第一書記のイワン・ポロスコフやレニングラード党第一書記のボリス・ギダスポフが台頭し、ゴルバチョフを追い込むことになった。
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