共産党体制の時代(1948年-1989年)
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「チェコの歴史」の記事における「共産党体制の時代(1948年-1989年)」の解説
詳細は「プラハの春」を参照 ベネシュに代わって、大統領に共産党の指導者クレメント・ゴットワルトが就任。基幹産業の国有化や農業集団化を推進し、ソ連型社会主義の建設に努めた。またソ連・ユーゴ対立の影響を受け、国内で「チトー主義者」に対する粛清・弾圧が吹き荒れた。この動きは、次第にスロヴァキアの自立を求めるスロヴァキア共産党員にも及び、グスターフ・フサークは終身刑、元外相ヴラジミール・クレメンティスが処刑された。さらに粛清の波は、1952年には、書記長であったルドルフ・スラーンスキーにも及び、頂点に達した。 1953年、ヨシフ・スターリンの葬式から帰国したゴットワルトがその後を追うように死去。党第一書記には、アントニーン・ノヴォトニーが、大統領にはアントニーン・ザーポトツキーが就任。1956年のソ連共産党第20回党大会におけるスターリン批判は、隣国ポーランドとハンガリーで体制危機を招いたが、チェコスロヴァキアでは、その影響は体制を揺るがすまでには至らなかった。1960年に発布された憲法によって、国名はチェコスロヴァキア社会主義共和国となり、社会主義建設は順調に進んでいることを内外に印象付けた。 しかし、1960年代に入ると、経済成長の鈍化、スロバキアの自治要求、知識人や学生などからの批判が高まり、1968年1月、ノヴォトニーに代わって、アレクサンデル・ドゥプチェクが党第一書記に就任。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由化や計画経済への市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復といった共産党体制の改革を進めた(毎年春に開催される音楽祭にちなんで「プラハの春」と呼ばれる)。しかし8月、“西側化”を危ぶんだソ連がワルシャワ条約機構軍を介入させて鎮圧(チェコ事件)、「プラハの春」は終わりを告げた。 1969年4月、ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサークによる「正常化体制(英語版)」が始まり、改革に賛同していた党員や知識人などは公的生活から追放された。1977年、哲学者ヤン・パトチカや劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルなどが憲章77を発表し、政府の人権抑圧に抗議する運動を起こす。
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