共産党入党から最初の失脚まで
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「趙紫陽」の記事における「共産党入党から最初の失脚まで」の解説
1919年10月17日に河南省滑県桑村郷趙庄で、富農の父である趙廷賓の長男として誕生する。原名は趙修業だが、少年期には既に自ら趙紫陽と名乗っていた。国民党率いる中華民国政府が中国大陸を統治していた1932年に中国国民党と対立していた中国共産主義青年団に加入。日中戦争最中の1938年2月に中国共産党に入党した。 国共内戦終結後の1949年10月1日の中華人民共和国成立後に広東省党委員会第三書記などを歴任した。大躍進などの失敗で、香港に逃げ込んだ人民に対して「自分たちが彼らを食べさせられないのだから仕方無い」と発言し、イギリス政府に送還された彼らを厳しく責めることはしなかった。これは農家を視察して政策の失敗を目の当たりにしていたからであり、農村における調整政策として三自一包などを実行して広東経済は若干好転した。 1966年4月の第8期11中全会で陶鋳が政治局常務委員に昇格して中央入りしたため、46歳と当時最年少で広東省党委員会第一書記に就任する。ところが陶鋳は間も無く鄧小平の代理として打倒され、趙紫陽も広東における陶鋳の代理人として批判を受けて失脚した。
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