共産党内での対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 05:12 UTC 版)
「国民的歴史学運動」の記事における「共産党内での対立」の解説
「民族とは近代の産物」という見解が常識として通用していた以上、「民族」という語を古代史や中世史にまで適用するには、歴史学者の間でも違和感が少なからずあり、「たいへんとまどった」反応を見せるのも当然であった。 その上、共産党は当時、所感派と国際派とで分裂を来たしており、同党に属する、あるいは支持する学者の全てが、スターリンの新たな民族観を受け入れたわけでも無かった。 所感派を中心とする当時の指導部は、階級闘争よりも反米闘争を前面に打ち出し、階級を超えた民族路線の構築を目指した一方、国際派は所感派の路線に関して、階級闘争を放棄した「ブルジョワ民族主義」と批判するに至った。 「民族文化」の内実を巡っても批判の応酬が避けられなかった。上述の通り、藤間は歴史学研究会の大会においてヤマトタケルを「民族意識の象徴」としているが、ヤマトタケルは天皇家の命を受け各地を征服した人物であった。結局藤間の挙げた「民族文化」は、大部分が戦前の愛国教育でも賛美されていたものであり、犬丸や井上からは「歴史の偽造」を指摘されてしまう。 なお、両者の批判に対して藤間は、支配者が作ったテキストや文化を再解釈し、それを革命の表現に転化してこそ、愛国教育を逆手に取れると説明し、反論の多くは民衆から乖離しており、民衆の民族意識を支配者に奪われたままにしていると反批判を行っている。
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