ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へとは? わかりやすく解説

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)

スロベニアの歴史」の記事における「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ」の解説

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」および「スロベニア人民解放委員会」も参照 1945年5月5日イタリアヴェネツィア・ジュリア州の共産党指導者解放戦線書記長であるボリス・キドリッチ (en) を中心とするスロベニア政府リュブリャナ樹立された。一方でチトー首班とする第二次チトー政権ベオグラード3月7日樹立されていたが、リュブリャナでは「合法性をあまり気にしない」をモットーとする政治警察人民保安部(OZNA) (en) 」による粛清が行われていた。そのため、ドイツ系人々財産没収され上で追放を受け、聖職者らを中心とする人々は敵に対して協力行った事実有無関わらず裁判かけられ多く人々有罪とされたが、その数は不明である。 解放戦線大戦中に財を成した農民対敵協力者などから没収した資産元に復興措置追ったが、銀行にまでその手は及び、さらに8月25日には全ての報道機関資産解放戦線管理下におかれる報道法」が制定野党らは自らの主張述べ機会奪われていた。さらに中央政府参加していた国王側の閣僚が夏に辞任する11月総選挙実施されたが、これは西側連合国異議申し立てない程度好ましくない人物選挙からの排除行った。そのため、共産党90%の支持を得る事となり、憲法制定議会召集される王政廃止連邦制基礎置いたユーゴスラビア連邦人民共和国樹立宣言されスロベニアその内一国となった。 しかし1918年ユーゴスラビア王国成立した際に問題となった国境線今回問題生じ事となった。1945年5月1日、チトー・パルチザンはイギリス軍よりも先にトリエステ侵攻しており、イタリアヴェネツィア・ジュリア全てと南カリンティア州の北部地域割譲要求したが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンらは地中海共産主義者拠点を得る事を望んでおらず、イギリス軍ユーゴスラビア軍の間に緊張が走る事となった。しかし、ソ連共産党西側連合国イタリア共産党との衝突を望まなかったため、ユーゴスラビア軍へトリエストからの撤退するよう命令1945年6月12日ユーゴスラビア軍撤退した。そのため、イギリス軍トリエステ占領したため、ヴェネツィア・ジュリア州の一部だけがユーゴスラビア領となることとなった一方でスロベニア人構成され部隊コペル(イタリアカポディストリア)とその周辺プリモーリェ(プリモールスカ)の占領行っていた。この結果1946年10月結ばれたパリ協定によりトリエステ中心とした地域イギリス軍アメリカ軍統治することとなり、コペル、ブーイェを含む地域ユーゴスラビア統治することとなり、この境界線では厳戒態勢敷かれる事となった。 一方カリンティアでは5月19日英米合同司令部ユーゴスラビア軍及びパルチザン部隊に対して撤退を行うよう最終通告突きつけたため、速やかにユーゴスラビア側はこれに応じた結局カリンティア行政権イギリス軍が握る事となり、国境線1919年当時同一とされたが、スロベニア人らはこれを受け入れる他なかった。 スロベニアにおいてはエドワルド・カルデリやボリス・キドリッチらが重要な役割果たしたが、「内部への敵」に対す闘争ユーゴスラビア内で実行された。しかし、そこにはレジスタンス活動加わりダッハウ強制収容所送られスロベニア共産党員含まれ1948年3月裁判かけられ反共産主義者として死刑などの重罪処されたが、これはオスマン帝国圧制ロシア慣習よりもユーゴスラビア西側に近いと考えていたスロベニア知識人らを失望させることとなったユーゴスラビア民族解放反ファシスト会議綱領元にユーゴスラビアでは農業改革進められ農地所有の上限が個人35ヘクタール団体10ヘクタール定められ多く大土地所有者が追放された。スロベニアでは大規模に土地所有していたドイツ人リュブリャナ司教座カトリック教会がその対象となったが、これはユーゴスラビア人口の半分占め農民たちの関心引き寄せることと、貧し農民豊かな農民対立させることに主眼置かれており、結局スロベニアにおける平均土地所有面積増加妨げられることとなった1946年以降五カ年計画実施されることとなり、スロベニアでは重工業への転換行いながら生産数三倍にすることが期待されたため、全ての主な銀行工場運輸流通商業貿易国有化地方小規模商店協同組合一部として組み込まれるなど全ての面での国有化進んだ。さらに教育方面でも改革進みマルクス主義教育文化活動導入化されることとなった。 ところが1948年6月28日コミンフォルムチトーユーゴスラビア非難しユーゴスラビアソ連との関係断絶することになるが、ユーゴスラビアでは「スターリン要素」やその支持者などは粛清されアドリア海のゴリ・オトク島の強制収容所送られた。そしてソ連よりも「マルクス主義的」である新制度導入されたが、その理論家はスロベニア人のE・カルデリが存在しており、彼は生産手段労働者優先権存在しており、労働者は「労働者評議会」を組織するものとしていた。このコミンフォルム決議の際、スロベニア人強力にチトー支持したが、これは西側への接近視野入れたものであった。 だが、コミンフォルムからの除名によりユーゴスラビア五カ年計画深刻な影響を受ける事となり、中央政府地方分権化行ったが、これによりスロベニアもその恩恵を受ける事となり、5ヵ年計画沿った政策実行、これはスロベニア工業発展端緒となり、ユーゴスラビアでも重要な地位占めることになった。 この雰囲気の中、1960年代ユーゴスラビア相対的に自由な国となり、制限はあるものの政治的議論が可能となっていた。しかし、1959年シュタイエルスカ地方トルボヴリェ鉱山発生した労働争議収拾策を巡り実力行使鎮圧主張する中央政府対話重視するスロベニア政府の間で深刻な対立生じていた。さらにユーゴスラビア経済危機が襲うとその対処方法でも両者対立することとなった。これは資本蓄積貧弱なまま工業生産急激に伸びたため、生産バランス崩壊したことによる中央政府は「ザドルガ」を解散個人農家創設するための資金融資を行わざるを得なくなっており、協同組合への加入廃止された。結局1966年7月、アレクサンダル・ランコヴィッチ (en) 内相失脚したことにより、トルボヴリェ鉱山ストライキ以降中央政府対立していたスロベニア政府における勝利みなされた。 1954年10月イタリアユーゴスラビアの間でロンドン議定書合意それまでユーゴスラビア軍占領していたコペル、ブーイェを含む地域ユーゴスラビア併合イギリス軍アメリカ軍占領していたトリエステ中心とした地域イタリアへ併合決定された。このためコペル港はスロベニア主権が及ぶこととなり、ブーイェからミルナ川 (en) までの地域クロアチア併合された。この国境線1975年イタリアユーゴスラビア結ばれたオージモ条約により最終的に決定する一方カリンティア地方オーストリア国家条約 (en) により、1938年当時国境線保証されることとなったため、オーストリアスロベニア少数民族の権利名目上認められたが、スロベニア愛国者たちには失望が走ることとなった1963年新憲法制定されることにより自主管理行政組織制度化、これにより各共和国自由裁量認められたため、スロベニア政府中央政府南部共和国分配する補助金制度批判した。他にも地方行政面でも自主管理制度を元とした改革が行われ、さらには経済改革の中で西側諸国への出稼ぎ容認された。このため人口増加により失業増加していたスロベニアにおいて多く人々ドイツ各地出国、さらに出稼ぎにでた人々送金することにより、スロベニア経済好転させることとなり、生活水準向上することとなった。しかし、各共和国経済改革推し進められたことにより、共和国同士競争生じることとなったが、それに伴いスロベニアエリート層も出現スロベニア政府首相スタネ・カウチッチ(Stane Kavčič)はエレクトロニクスサービス業中心とした近代産業構造変化させることにより西側との関係深めることを構想したが、これは地中政府によって妨害され、カウチッチは労働者階級敵対する人物スロベニア分離独立行おうとしているとして失脚したこうした共産主義者同盟(ユーゴスラビア共産党)内での対立によりチトーは各共和国への大幅な権限委譲決断1974年憲法 (en) により「自由に連合した生産者による直接民主主義」と各共和国自治大きなとされた。しかし、オイルショック生じた事により、経済危機ユーゴスラビアを襲うと北部スロベニアクロアチア南部マケドニアモンテネグロ及びコソボ自治州の間の格差はさらに拡大インフレユーゴスラビアを襲う事になり貿易赤字15ドルにまで到達対外債務返済繰り伸ばし失業増加見られるようになった1972年スロベニアではリベラル派敗北したことにより保守体制続いていたが、経済面での近代化進んでおり、スロベニア国民総生産ユーゴスラビア平均の2倍に達していた。しかし、スロベニア製品ユーゴスラビア内を席巻してはいたが国際市場進出するには困難が生じており、農業面においても古典的な自給自足中心としていたため、農産物価格高騰するという問題抱えていた。また、このことから1965年創設され南部共和国が安い利子借り入れができる「発展のための連邦基金」はスロベニアクロアチア南部共和国養っている状態であるとしていた。 1980年5月4日チトーリュブリャナ病院死去しチトー遺体ベオグラード移送されることとなるが、ユーゴスラビアという枠内でのスロベニア共和国活動終わりを告げようとしていた。

※この「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ」の解説は、「スロベニアの歴史」の解説の一部です。
「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ」を含む「スロベニアの歴史」の記事については、「スロベニアの歴史」の概要を参照ください。

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