ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ
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「スロベニアの歴史」の記事における「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ」の解説
「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」および「スロベニア人民解放委員会」も参照 1945年5月5日、イタリア領ヴェネツィア・ジュリア州の共産党指導者で解放戦線の書記長であるボリス・キドリッチ (en) を中心とするスロベニア政府がリュブリャナで樹立された。一方でチトーを首班とする第二次チトー政権がベオグラードで3月7日に樹立されていたが、リュブリャナでは「合法性をあまり気にしない」をモットーとする政治警察「人民保安部(OZNA) (en) 」による粛清が行われていた。そのため、ドイツ系の人々が財産を没収された上で追放を受け、聖職者らを中心とする人々は敵に対して協力を行った事実の有無に関わらず、裁判にかけられ多くの人々が有罪とされたが、その数は不明である。 解放戦線は大戦中に財を成した農民や対敵協力者などから没収した資産を元に復興措置を追ったが、銀行にまでその手は及び、さらに8月25日には全ての報道機関の資産が解放戦線に管理下におかれる「報道法」が制定、野党らは自らの主張を述べる機会を奪われていた。さらに中央政府に参加していた国王側の閣僚が夏に辞任すると11月に総選挙が実施されたが、これは西側連合国が異議を申し立てない程度に好ましくない人物の選挙からの排除を行った。そのため、共産党は90%の支持を得る事となり、憲法制定議会が召集されると王政の廃止と連邦制に基礎を置いたユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立が宣言され、スロベニアもその内の一国となった。 しかし1918年、ユーゴスラビア王国が成立した際に問題となった国境線が今回も問題を生じる事となった。1945年5月1日、チトー・パルチザンはイギリス軍よりも先にトリエステに侵攻しており、イタリア領ヴェネツィア・ジュリア州全てと南カリンティア州の北部地域の割譲を要求したが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルとアメリカ大統領ハリー・S・トルーマンらは地中海に共産主義者が拠点を得る事を望んでおらず、イギリス軍とユーゴスラビア軍の間に緊張が走る事となった。しかし、ソ連共産党は西側連合国やイタリア共産党との衝突を望まなかったため、ユーゴスラビア軍へトリエストからの撤退するよう命令、1945年6月12日、ユーゴスラビア軍は撤退した。そのため、イギリス軍がトリエステを占領したため、ヴェネツィア・ジュリア州の一部だけがユーゴスラビア領となることとなった。一方でスロベニア人で構成された部隊はコペル(イタリア名カポディストリア)とその周辺プリモーリェ(プリモールスカ)の占領を行っていた。この結果、1946年10月に結ばれたパリ協定によりトリエステを中心とした地域はイギリス軍、アメリカ軍が統治することとなり、コペル、ブーイェを含む地域はユーゴスラビアが統治することとなり、この境界線では厳戒態勢が敷かれる事となった。 一方、カリンティアでは5月19日、英米軍合同司令部がユーゴスラビア軍及びパルチザン部隊に対して撤退を行うよう最終通告を突きつけたため、速やかにユーゴスラビア側はこれに応じた。結局、カリンティアの行政権はイギリス軍が握る事となり、国境線は1919年当時と同一とされたが、スロベニア人らはこれを受け入れる他なかった。 スロベニアにおいてはエドワルド・カルデリやボリス・キドリッチらが重要な役割を果たしたが、「内部への敵」に対する闘争がユーゴスラビア内で実行された。しかし、そこにはレジスタンス活動に加わりダッハウ強制収容所へ送られたスロベニア共産党員も含まれ、1948年3月、裁判にかけられて反共産主義者として死刑などの重罪に処されたが、これはオスマン帝国の圧制やロシア的慣習よりもユーゴスラビアが西側に近いと考えていたスロベニア知識人らを失望させることとなった。 ユーゴスラビア民族解放反ファシスト会議の綱領を元に、ユーゴスラビアでは農業改革が進められ、農地所有の上限が個人は35ヘクタール、団体が10ヘクタールに定められ多くの大土地所有者が追放された。スロベニアでは大規模に土地を所有していたドイツ人、リュブリャナ司教座、カトリック教会がその対象となったが、これはユーゴスラビア人口の半分を占める農民たちの関心を引き寄せることと、貧しい農民と豊かな農民を対立させることに主眼が置かれており、結局、スロベニアにおける平均土地所有面積の増加は妨げられることとなった。 1946年以降、五カ年計画が実施されることとなり、スロベニアでは重工業への転換を行いながら生産数を三倍にすることが期待されたため、全ての主な銀行、工場、運輸、流通、商業、貿易が国有化、地方の小規模商店は協同組合の一部として組み込まれるなど全ての面での国有化が進んだ。さらに教育方面でも改革が進み、マルクス主義教育や文化活動が導入化されることとなった。 ところが1948年6月28日、コミンフォルムがチトーとユーゴスラビアを非難し、ユーゴスラビアはソ連との関係を断絶することになるが、ユーゴスラビアでは「スターリン的要素」やその支持者などは粛清されアドリア海のゴリ・オトク島の強制収容所に送られた。そしてソ連よりも「マルクス主義的」である新制度が導入されたが、その理論家はスロベニア人のE・カルデリが存在しており、彼は生産手段は労働者に優先権が存在しており、労働者は「労働者評議会」を組織するものとしていた。このコミンフォルム決議の際、スロベニア人は強力にチトーを支持したが、これは西側への接近を視野に入れたものであった。 だが、コミンフォルムからの除名によりユーゴスラビアの五カ年計画は深刻な影響を受ける事となり、中央政府は地方分権化を行ったが、これによりスロベニアもその恩恵を受ける事となり、5ヵ年計画に沿った政策を実行、これはスロベニアの工業発展の端緒となり、ユーゴスラビアでも重要な地位を占めることになった。 この雰囲気の中、1960年代のユーゴスラビアは相対的に自由な国となり、制限はあるものの政治的議論が可能となっていた。しかし、1959年、シュタイエルスカ地方のトルボヴリェ鉱山で発生した労働争議の収拾策を巡り、実力行使で鎮圧を主張する中央政府と対話を重視するスロベニア政府の間で深刻な対立が生じていた。さらにユーゴスラビアを経済危機が襲うとその対処方法でも両者は対立することとなった。これは資本蓄積が貧弱なまま工業生産が急激に伸びたため、生産のバランスが崩壊したことによるが中央政府は「ザドルガ」を解散、個人農家を創設するための資金融資を行わざるを得なくなっており、協同組合への加入も廃止された。結局、1966年7月、アレクサンダル・ランコヴィッチ (en) 内相が失脚したことにより、トルボヴリェ鉱山のストライキ以降、中央政府と対立していたスロベニア政府における勝利とみなされた。 1954年10月、イタリアとユーゴスラビアの間でロンドン議定書に合意、それまでユーゴスラビア軍が占領していたコペル、ブーイェを含む地域はユーゴスラビアへ併合、イギリス軍、アメリカ軍が占領していたトリエステを中心とした地域はイタリアへの併合が決定された。このため、コペル港はスロベニアの主権が及ぶこととなり、ブーイェからミルナ川 (en) までの地域はクロアチアへ併合された。この国境線は1975年、イタリアとユーゴスラビアで結ばれたオージモ条約により最終的に決定する。一方、カリンティア地方はオーストリア国家条約 (en) により、1938年当時の国境線が保証されることとなったため、オーストリアのスロベニア系少数民族の権利が名目上は認められたが、スロベニアの愛国者たちには失望が走ることとなった。 1963年、新憲法が制定されることにより自主管理行政組織が制度化、これにより各共和国に自由裁量が認められたため、スロベニア政府は中央政府が南部の共和国へ分配する補助金制度を批判した。他にも地方行政面でも自主管理制度を元とした改革が行われ、さらには経済改革の中で西側諸国への出稼ぎが容認された。このため、人口増加により失業が増加していたスロベニアにおいて多くの人々がドイツ各地へ出国、さらに出稼ぎにでた人々が送金することにより、スロベニアの経済を好転させることとなり、生活水準も向上することとなった。しかし、各共和国で経済改革が推し進められたことにより、共和国同士の競争が生じることとなったが、それに伴いスロベニアのエリート層も出現、スロベニア政府首相スタネ・カウチッチ(Stane Kavčič)はエレクトロニクスやサービス業を中心とした近代産業構造へ変化させることにより西側との関係を深めることを構想したが、これは地中央政府によって妨害され、カウチッチは労働者階級に敵対する人物でスロベニアの分離独立を行おうとしているとして失脚した。 こうした共産主義者同盟(ユーゴスラビア共産党)内での対立によりチトーは各共和国への大幅な権限委譲を決断、1974年憲法 (en) により「自由に連合した生産者による直接民主主義」と各共和国の自治が大きな柱とされた。しかし、オイルショックが生じた事により、経済危機がユーゴスラビアを襲うと北部のスロベニア、クロアチアと南部のマケドニア、モンテネグロ及びコソボ自治州の間の格差はさらに拡大、インフレがユーゴスラビアを襲う事になり貿易赤字が15億ドルにまで到達、対外債務の返済の繰り伸ばし、失業の増加が見られるようになった。 1972年、スロベニアではリベラル派が敗北したことにより保守体制が続いていたが、経済面での近代化は進んでおり、スロベニアの国民総生産はユーゴスラビア平均の2倍に達していた。しかし、スロベニアの製品もユーゴスラビア内を席巻してはいたが国際市場に進出するには困難が生じており、農業面においても古典的な自給自足を中心としていたため、農産物の価格が高騰するという問題を抱えていた。また、このことから1965年に創設され、南部の共和国が安い利子で借り入れができる「発展のための連邦基金」はスロベニア、クロアチアが南部の共和国を養っている状態であるとしていた。 1980年5月4日、チトーがリュブリャナの病院で死去しチトーの遺体はベオグラードへ移送されることとなるが、ユーゴスラビアという枠内でのスロベニア共和国の活動が終わりを告げようとしていた。
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