スロベニアの歴史とは? わかりやすく解説

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スロベニアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 07:56 UTC 版)

本項ではスロベニアの歴史について述べる。


注釈

  1. ^ ただし、『オーストリア史』によれば970年に始めてカランタニア辺境領の名前が史料に現れるとしており、中心地はヘンギストブルクにあったとしている[8]
  2. ^ 反乱が鎮圧された後、グーベッツは捕らえられ真っ赤に燃える冠をかぶらされることにより処刑された[14]
  3. ^ これは首都ウィーンで使用されている事、政府中央機関で使用されていることから指定したもので、ヨーゼフ2世は文学的ではなく実際的な問題から指定したものであった[21]
  4. ^ スロベニア人らは6つの州に分断されており、多数を占めているのはカルニオラだけで人口の93%を占めていた。しかし、その他のカリンティアでは21%、ゲルツ・グラディシュチャでは62%、トリエステでは30%、イストリアでは14%でしかなかった[34]
  5. ^ クロアチア権利党の指導者スタルチェヴィチはクロアチア、スロベニア、ダルマチアの連合から「大クロアチア」の形成を行った上でオーストリア=ハンガリー帝国の再編を行い、三重帝国化することを望んでおり、皇太子フランツ・フェルディナント はこの計画に好感を持っていた[35]
  6. ^ 結局、このヴィドダン憲法はあまりにも集権主義的であるとしてクロアチア、スロベニアの諸政党や共産党が議会で反対を唱え、連邦制を主張していたクロアチア共和農民党は出席を拒否している[50]
  7. ^ これはスロベニアやクロアチアで大多数を占めるカトリック教徒の懐柔を行う事と、イタリアとの関係改善を狙ったものであった[53]
  8. ^ ハンガリーは1940年1月20日にユーゴスラビアと「恒久友好条約」を結んでいた。しかし、ユーゴスラビアでクーデターが発生したことにより、反ドイツ的国民感情の強いハンガリー国内とユーゴスラビア攻撃の協力を求めるドイツとの間で首相テレキ・パールは板ばさみに合い、後に自殺している。この結果、ハンガリーはユーゴスラビア攻撃に参加することは拒否したが、ドイツ軍の国内通過を黙認することになる。さらにクロアチアが独立したことにより、旧自国領であるヴォイヴォイディナ地域への攻撃には参加した[65]
  9. ^ この同意のため、それまで「スロベニア人同盟」が王国政府の支援する対象であったが、「スロベニア民族委員会」がその対象となった[71]
  10. ^ このため、共産党は勢力を広げることとなる[71]
  11. ^ この選挙では共産党が推薦する候補者名簿からその人を支持するかどうかを表明するものであって、事実上の信任投票であった。そのため、支持率は90%であったにもかかわらず、投票率は88%であった[75]
  12. ^ この時、スロベニア語が公用語として認められ、リュブリャナの司教座を中心として宗教の自由を得る事となる[75]
  13. ^ 豊富な石炭を使用して鉱山業、機械、金属、繊維、化学、農業、食品の各分野で工業化が進み、ユーゴスラビア連邦平均を上回る生活水準を保つ事となり、ユーゴスラビア経済の牽引力と化す[77]
  14. ^ スロベニアはユーゴスラビア人口の8,5%を占めるにすぎなかったが、国民総生産の18%、輸出総額の25%を生産していた[85]
  15. ^ この時点までカルデリはスロベニアにおけるリベラル派と考えられていたが、スロベニアだけではなくセルビア、クロアチアの人々の動きも制御しようとしており、党内の地位保全にこだわりを見せていた[88]
  16. ^ この共通化は文学、歴史の分野においてどの著者を選ぶか、どのようなテーマを扱うかという点に問題が発生しており、ユーゴスラビア内の諸民族グループがそれぞれの民族の立場に立った評価を下したためにさらに問題が大きくなることとなった。そして作家グループらもセルビアが目指す新たな体制が中央集権的なものであり時代錯誤であるとして激しい論争を繰り広げることとなった[88]
  17. ^ 軍と党組織にセルビア人が多すぎると発言した歴史学者フラーニョ・トゥジマンや「イスラム」について言及した弁護士アリヤ・イゼトベゴヴィッチらが起訴され有罪とされている[90]
  18. ^ これはユーゴスラビア連邦軍内でセルビア・クロアチア語がしようされ、スロベニア語が使用されていないという事を批判した記事であった[93]
  19. ^ これはヴォイヴォディナ自治州モンテネグロ共和国で使用された手法で、セルビア人による大集会を開催させた上で連邦軍を派遣して政権を掌握、コソボ自治州はセルビア共和国に再統合されていた[94]
  20. ^ ただし、これらの三政党も共産党系と言いながらも市場経済の導入や複数政党制などを支持していた[98]
  21. ^ この新通貨導入にはユーゴスラビアの経済、過去のハイパーインフレから抜け出す意図もあった[104]。この狙いは成功しており、最大2000%にまで至っていたインフレ率は最終的に12%までは順調に低下した[105]
  22. ^ フランスは第一次世界大戦以来ユーゴスラビアと友好関係を結んでおり、ユーゴスラビアの統一の維持を主張するセルビアを支持、アメリカ、ソ連もこの時点ではマルコヴィッチ首相が経済の自由化に積極的改革の行える対話できる人物と見做していたため、ユーゴスラビアの維持を望んでいた[107]
  23. ^ 戦後スロベニアについての見解、共産主義への立場を巡り、戦後スロベニア肯定、共産主義肯定の立場を取るスロベニア共産同盟を原点とする社会民主連合リスト (en自由民主党国民党 (en、戦後スロベニア肯定、共産主義の否定の立場を取る人民党 (en、戦後スロベニアの否定、共産主義の否定の立場を取るキリスト教民主党 (enの三派へ分かれた。このことから最初のグループを左派、第二のグループを中道、最後のグループを右派とする見解も存在する[113]
  24. ^ 独立時に失ったのは輸出総額の45.2%。そのためGDPが1991年に8.9%の低下、失業率が1991年には7.3%。1993年には9.1%にまで達していたが、1993年以降、EU諸国との貿易が盛んになったことにより、1996年には1990年のGDPを上回ることとなる[116]
  25. ^ スロベニア国内においても急進派である社会民主党がこの撤廃に強く反発を示していた[118]
  26. ^ EU加盟に先立ってシェンゲン協定に調印、2007年12月21日より実施された[120]

参照

  1. ^ 小山洋司 2006, p. 24.
  2. ^ a b カステラン・ベルナール(2000)、p.18.
  3. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.19-20.
  4. ^ a b ツェルナー (2000)、p.63.
  5. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.20-21.
  6. ^ カステラン・ベルナール(2000)、p.21.
  7. ^ 矢田 (1977)、p.56.
  8. ^ ツェルナー (2000)、p.109.
  9. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.21-22.
  10. ^ カステラン・ベルナール(2000)、p.41.
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  20. ^ a b カステラン・ベルナール(2000)、pp.27-28.
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  25. ^ カステラン・ベルナール(2000)、p.29.
  26. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.38-39.
  27. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.39-40.
  28. ^ a b c カステラン・ベルナール(2000)、pp.30-31.
  29. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.53-55.
  30. ^ カステラン・ベルナール(2000)、p.31.
  31. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.32-33.
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  34. ^ カステラン・ベルナール(2000)、p.35.
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  37. ^ 柴(2001)、pp.82-83.
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  39. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.46-47.
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  111. ^ カステラン・ベルナール(2000)、pp.99-100.
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  113. ^ 齋藤厚 2005, p. 42-43.
  114. ^ 齋藤厚 2005, p. 45-46.
  115. ^ 小山洋司 2006, p. 14-15.
  116. ^ 小山洋司 2006, p. 4.
  117. ^ a b c 小山洋司 2006, p. 3.
  118. ^ 齋藤厚 2005, p. 47-48.
  119. ^ a b 外交フォーラム2008年4月号、p.51.
  120. ^ 外交フォーラム2008年4月号、p.56.




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