そして独立へ
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1991年にベオグラードで開催された第14回共産主義者同盟大会でクロアチアとスロベニアの共産主義者たちはこれまでの教条を捨て去る事を主張したが、これが受け容れられなかったため、クロアチア代表とスロベニア代表らは大会会場から退場、スロベニア代表らはユーゴスラビア共産主義者同盟とは無関係であると宣言した。ミロシェヴィッチは大会をそのまま続けようとしたが、今度はクロアチア代表団の抗議が行われ1月23日、大会は中断されたまま無期延期となった。中央政府首相アンテ・マルコヴィッチ (en) はユーゴスラビアは継続するが共産主義者同盟は政治の舞台より消え去ったと宣言したがすでにセルビアを代表とする中央集権派とスロベニア、クロアチアらを代表とする独立派に分かれていた。 これが明確に現れていたのが1990年4月に行われた初の自由選挙であり、スロベニアでは野党連合「デモス」が55%の得票率を獲得、残りの得票率をそれまで存在していた共産党系である民主改革党など三政党で分け合う形となっていた。首相にはキリスト教民主党党首ロイゼ・ペテルレ (en) が選出され、同時に共和国大統領が直接選挙が行われた上でスロベニアに複数政党制を暴力行為無しに導入した改革派共産主義者ミラン・クーチャンが59%の得票率で当選していた。これら初の自由選挙ではハンガリー系やイタリア系の少数民族らにも一議席ずつ割り当てがあり、スロベニアの人々がスロベニアの独立を目指す「デモス」を支持していたことが明らかになった。これらの結果を受けて大統領クーチャンは共産主義者同盟へ辞表を提出、デモスの代表者らに組閣を要請した。 スロベニア共和国首相ペテレルはスロベニアの民主的、平和的な独立を達成するためにスロベニアの政治的、民族的政策を纏め上げユーゴスラビア連邦政府との交渉を行うことを考えており、1990年12月の議会においてスロベニアの独立とユーゴスラビアからの離脱について国民投票を行う事を決定した。一方でスロベニア国内では過去の「ドモブランツィ」と「パルチザン」らの和解が課題として残っていたがこれは盛大な記念式典が1991年6月開催されたことにより清算へ向かっていた。しかし、連邦政府はこの問題で話し合う気は全く持ち合わせておらず、すでに独立への意思を明確にしていたスロベニア、クロアチアから少しでも領土を獲得するための行動を開始した。このため、クロアチアのセルビア人らはユーゴスラビア連邦軍の協力を得た上でリーカ地方から北ダルマチアにかけてクロアチア政府の政策を拒否、アドリア海へつながる交通路を遮断するなどを行っていた。 スロベニアでは7月2日から国会においてソ連邦のバルト三国の例にならい共和国法が連邦法に優先するなどの「主権宣言」を行い、さらに9月28日には国防に関する分野など全ての分野を共和国が掌握するとした憲法修正が採択され、領土防衛隊がスロベニア政府の指揮下となり、10月8日には新通貨トラールが導入された。これに対してユーゴスラビア連邦幹部会議長ボリサヴ・ヨーヴィッチ (en) は連邦政府の権限を侵すと激しく非難した。しかし、スロベニア大統領クーチャンと首相ペテルレはこれに対して12月23日に行う国民投票においてユーゴスラビアとスロベニアが新たな関係を確立するべきがどうかについて信を問う事を決定、リュブリャナ教区のシュシュタル大司教もこれを支持した。しかし連邦政府首相アンテ・マルコヴィッチはスロベニアが憲法違反を犯しており、必要対抗処置を取ると脅迫した。 結局、投票が行われ、有権者150万人の内、89%が参加、その内の88.5%がスロベニアが主権を持つ事、スロベニアが独立することへの支持しており、さらにはスロベニア以外に住むスロベニア人以外の人々もこれに賛成していた。これに対してスロベニアの独立をあくまでも認める気のないセルビア共和国政府は連邦政府がセルビアの影響下にあることを証明するために16億ドル相当のディナール紙幣を印刷したが、これはユーゴスラビアの経済に致命的な打撃を与えるという皮肉な結果に終わった。 スロベニアは国民投票時に発表した半年の猶予期間を過ぎた1991年6月25日、リュブリャナの議会にてスロベニア共和国の独立を宣言した。しかし、連邦政府はこれを認めず、さらには国際社会においても連邦政府の意向を支持する可能性が存在していた。さらには連邦政府首相マルコヴィッチは独断でオーストリア、イタリアとのそれぞれの国境の確保を命令、スロベニアを孤立させようとした。しかしスロベニアはこれを事前に察知、8万人を動員してこれに備えていた。
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