そして真相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 16:12 UTC 版)
従来、岡田の死刑判決については、軍法会議ではなく軍律会議で裁いたことが違法とされた、あるいは、略式の軍律会議であった事が問題とされたのだと、日本では解釈・理解されることが多かった。また、大岡のこの小説は有力ブロック紙である中日新聞や東京新聞で連載され、単行本や文庫本は版を重ね、大勢の人に読まれ、多くの人にとっての岡田元中将のイメージを形作った。そこでは、部下のために自分が一身に罪を被ろうとした人物である、アンチ・テーゼとして、中国戦線での毒ガス使用の疑惑がときに囁かれるものの、全体としては偉大な人物として捉える向きが一般的であった。 しかし、この事件には、裁判の十数年後の法務省の聞取り調査で元被告と弁護人らが明らかにしていたものの、以後、法務省で伏せられ2002年以降国立公文書館で公開されるまで一般には公表されなかった事実があった。『「BC級裁判」を読む』によれば、兵站参謀の保田少佐が、終戦翌日には参謀長の指示で事件の対策会議が行われ、保田が事件の調査(事実上、対策?)を命じられたものの、自身だけの手に負えないことから、同年10月岡田中将に会って、知る知らぬに関わらず司令官として自ら号令を下してほしいと具申、その結果、岡田は参謀部全員を集め、軍が醜態をさらさぬよう団結してもらいたいと訓示、そして、岡田は保田に対策案作成を命じたという。その結果、保田は先の項目「あらすじ」にある岐阜案と事実に沿った案の二案を出したという。しかし、関係者は岐阜案は予行演習もしたもののうまく行くか不安があり、弁護士に相談しても馬鹿げているとのことであった。結局、東京で軍司令官会同があり、そこで各軍の同様の処刑問題を協議することになり、迷う岡田に事実に沿った案でいくよう、進言したという。岡田はその方針を下村定陸軍大臣に伝え、これを聞いたとき下村は喜んで岡田の手を握って感謝したという。 しかし、それでも結局、東海軍に極力有利なストーリーを保田が準備することになった。法務部は席上、不承不承納得したが微妙な態度で、最終的にO法務少将の死によって背を向けたと、保田はする。 岡田中将は、軍司令官は軍律を定める権限があるから、略式軍律を定めたとでも言わなければ、この件は弁解はできない、としたとする。どう弁解が利かないのかは、『「BC級裁判」を読む』は、資料では詳しく語られていないが、実際には裁判が全く行われていなかった可能性があるとする。(なお、偽装工作は東海軍だけの意向ではなく、他の方面軍も同様な問題を抱えていたこともあって、これらは会同全体の意向であった可能性もある。実際に、O法務少将が別の彼自身の東京出張後ふさぎこんだとされ、法務部自体も実際に当初同意していた可能性もある。一方で、それでは遺書内容の説明がつかず、東海軍参謀の保田の話でもなお東海軍側を庇おうとしている節があることや、山上少将があれほど堂々と岡田中将の取調べや戦犯裁判に対峙していることから、法務科将校に対する司令官・参謀らの蔑視感情・軽視から、東海軍ではO法務少将本人をつんぼ桟敷に置いたまま、後から無理やり言う事を聞かせるつもりで初めから作ったものである可能性も強く、少なくとも東京の法務部では事態の一部しか関知しないまま、あるいは、全くの東海軍内だけで作ったストーリーの可能性も残る。大岡昇平は、岡田中将が初めから自身が全責任を負うとしていたとするが、実際には、東海軍のストーリーでは司令官が法の専門家の答申を信じて行動したことになり、第一責任者はO法務少将となる。実際に、別の米軍機搭乗員処刑事件の裁判では、軍司令官だけでなく、軍法務部長も死刑となっている。 さらに、この時点では、略式の制定・実施に関わった人間がどこまで連座するか前例もなく判断できなかった。これでは無実の人間まで極刑にされる恐れがあると見た佐伯弁護人は被告らに、「裁判は軍隊ではない。裁判は真実でいくものだから自分の思うところを率直に述べるべき」、「軍隊は無くなったのだから、軍の形を持って全員玉砕主義は不可である」と説得したという。それでもなお、佐伯弁護士は、岡田自身も悩んでおり、計画を進める内に達観していき、最後は一切を自分の責任としたと言い、そこに彼の本当の人間らしい偉さがあるとし、それを理解しない者が批判するのを怖れて、自分は黙していたのだとする。 しかし、『「BC級裁判」を読む』は、このストーリーによって名誉を傷つけられた人間もいるとして、厳しい。法務官らは「責任逃れ」と非難されたが、むしろ彼らの主張が真実であったとする。事実を隈なくいえば、「軍の名誉をまもる」、「法戦だ」との大義名分を掲げながら、実際にはそれは、関係者らが全くのウソをつくことで軍司令官の身を含めて守ろうとするものであり、そのために、本件では本来必ずしも死ぬ謂われでなかった者がせめて自身の名誉を守ろうとして自死し、それでもなお、方向はあらためられることなく、むしろ当人の死を幸いとするかのように、ウソによって名誉を汚され続けていたことになる。 佐伯弁護人は、「略式軍律の問題は(裁判では)容認されなかった。いわゆる山上調査がこれを喝破している。米人検事は略式軍律(の話)が弁護対策に作為されたものであることは感じ取っていた」とする。ふたたび、『ながい旅』を振り返ると、いみじくも、大岡は書いている。ある検事は笑いながら、「東海軍はあまりに話の辻褄が合いすぎていた。普通はもっと食い違うものですよ。だから怪しいと思った」と通訳に言った、と。 2007年にそれまでの新潮文庫版に替わって出版された角川文庫版では、作品を「昭和57年5月に新潮社より刊行された」とした上で、最後に歴史家中島岳志による解説があり、そこではもはや略式手続きがどうのといった話は一切なく、単に「軍律会議は開かれなかった」と書かれている。 なお、このB29搭乗員の処刑は、同様な問題を抱える軍管区司令官が東京に集まって対策会議が開かれたこと、岡田が(おそらく実際には、軍中枢に累を及ぼさず、東海軍だけで問題の責任を被って処理すると言って)陸軍大臣に感謝されたことを保田に語っていることから、実際には、東京の陸軍中枢からの指示で密殺された可能性が極めて高い。
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