戦犯裁判とは? わかりやすく解説

戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:43 UTC 版)

バターン死の行進」の記事における「戦犯裁判」の解説

第二次世界大戦後マニラ軍事裁判極東国際軍事裁判において、第14軍司令官本間雅晴捕虜移送責任者であった第14軍兵站河根良賢少将は、死の行進責任者として有罪判決下り死刑処された。既に述べたように、バターン陥落後に捕虜への人道的な扱い命じたことや、人道主義者であると、アメリカ側記録にも認知されていた本間であるが、その本間が、戦時中部下捕虜への過酷な待遇残虐行為について知らなかったのは本当であり、軍事裁判初め事実を知ることとなった。 偽の殺害命令出して虐殺おこしたとされる辻政信中佐は、終戦時バンコクで僧に変装して潜行し、フランス領インドシナ中華民国経て1948年5月日本に帰国数人元高将校に匿われて、戦争犯罪追及逃れていた。GHQは辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をGHQ参謀第2部(G2)のエージェントとして利用し結局辻が戦犯として逮捕・起訴されることはなかった。

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:29 UTC 版)

本間雅晴」の記事における「戦犯裁判」の解説

バターン半島陥落後、1942年8月参謀本部附となり、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声映像残っている。同月予備役編入され以後軍務に就くことなくフィリピン協会理事長務めて終戦迎えた予備役編入理由は、バターン攻略不手際とがめられたものとされる終戦後、「バターン死の行進関係者処罰されるのでは」という話を陸軍聞きつけ、「先手打って処罰すれば刑が軽くなるではないか」(いわゆる一事不再理』の発想)と考え本間陸軍中将としての礼遇停止した1945年12月12日早朝本間身柄勾留先の巣鴨拘置所から厚木飛行場経てマニラ向け送られた。この日は同年12月2日指名されA級戦犯容疑者(第三次戦犯指名)が巣鴨拘置所出頭する日であり、入れ替えが行われた形となった結局マニラ戦犯裁判で、本間バターン死の行進責任者戦犯)として召喚された。本間前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人道行為本間責任ではなく部下責任であった。しかし、結果的に責任をとることとなり、有罪判決下り本間死刑決まった。この訴状はこの裁判のために作った事後法の「指揮者責任」だった。有罪判決が下ると本間弁護団アメリカ連邦最高裁判所人身保護令を求めたが、6対2の判決再審却下された。 処刑は、1946年昭和21年4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃命令下された同じ月日神武天皇祭の日)、同じ時刻あわせて執行された。当時、ほとんどの将校囚人服絞首刑処せられたのに対し本間場合は、略式軍服着用認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった同じくマニラ軍事裁判死刑判決下された山下奉文場合は、囚人服着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。 辞世の句次のとおりであった。 「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラ土となるもまたよ志」「甦る 皇御國祭壇生贄として命捧げむ」「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」「予てより 捧げし命いまここに 死所得たり微笑みてゆく」「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ1945年昭和20年12月19日審理開始1946年2月11日紀元節の日)判決同年4月3日銃殺という早さ処刑されたのは、この裁判コレヒドール屈辱的な敗北をしたマッカーサー本間への復讐劇であったと言われている。

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:21 UTC 版)

連合国軍占領下の日本」の記事における「戦犯裁判」の解説

極東国際軍事裁判東京裁判1945年昭和20年8月8日英米仏ソの連合国4国がロンドン調印した国際軍事裁判所憲章に基づき極東国際軍事裁判所条例極東国際軍事裁判所憲章)が定められ同年1月19日連合国軍最高司令官マッカーサー元帥極東国際軍事裁判設立宣言した裁判1946年昭和21年5月3日から1948年昭和23年11月12日にかけて行われ憲章第6条A項が規定する平和に対する罪」に違反したとされる政治家軍関係者A級戦犯容疑で約100人を逮捕そのうち28人を起訴した裁判結果、7名が死刑16名の終身刑判決受けて処罰された。 当初55項目の訴因挙げられたが、ポツダム宣言6項にある「日本イタリアドイツの3国による世界支配共同謀議」と「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため退けられ残り43項目については他の訴因含まれるとされ除外され最終的には「1928年から1945年に於ける侵略戦争対する共通の計画謀議」、「 満州事変以後対中民国への不当な戦争」、「米・英・仏・対す侵略」の計4項目、その他合計10項目の訴因にまとめられた。 なお、敗者ある日本が、勝者である連合国軍裁かれ極東軍事裁判は、ドイツ行われたニュルンベルク裁判同様、法律家歴史研究者のみならず右派国粋主義からも批判されている。当時ではイギリス領インド帝国ラダ・ビノード・パールが「裁判の体を成していない」「復讐目的裁判」「事後裁判だ」と批判したBC級戦犯 約5600人がBC級戦犯として各地逮捕された。横浜上海シンガポールラバウルマニラマヌス島等々南方各地50数カ所の牢獄抑留され、約1000名が軍事裁判結果死刑処された。 BC級戦犯中には日本海外領土であった朝鮮人148人、台湾人173名が含まれていた。

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 22:58 UTC 版)

マゲラン事件」の記事における「戦犯裁判」の解説

この事件は、戦犯裁判で起訴されたが、十分な条件整わず無罪終わった

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:55 UTC 版)

サンダカン死の行進」の記事における「戦犯裁判」の解説

オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所将兵には下記のような極刑科せられた。また、殺害実行した台湾人監視員達には、懲役刑科せられた。 星島大尉 絞首刑死刑山本正一大尉 絞首刑死刑阿部一中尉 死刑卓男大尉 絞首刑死刑渡辺源三中尉 銃殺刑死刑) 室住久雄曹長 終身刑 サンダカン捕虜収容所統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部指令出した第三軍司令部に対しては、馬場正郎中将軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回捕虜移動計画した山脇正隆中将前軍司令官)はこの件に関して一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体最高責任者であり、関係者の中では比較人道的であった辰次大佐9月16日自殺していた為、訴追される事はなかった。 なお、これら罪状立証について、殆ど審理行われておらず、刑の根拠には疑念抱かざるを得ないとする見解もある。

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/06 00:46 UTC 版)

横須賀海軍警備隊植木分遣隊」の記事における「戦犯裁判」の解説

詳細は「大船収容所事件」を参照 戦後30人関係者捕虜虐待などの戦争犯罪人BC級戦犯)として起訴された。収容者死亡者が6人と少ない(他の国内の収容所では100人以上の死亡者発生した施設複数ある)にもかかわらずこれだけ関係者起訴された点について、笹本妙子は、収容者正規捕虜として扱わなかった特異な性質関係しているのではないか推測している。判決では所長軍医大佐衛生曹長の3人に絞首刑言い渡されたが、減刑され終身刑2人残り懲役刑刑期最長40年となった

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 00:51 UTC 版)

双十節事件」の記事における「戦犯裁判」の解説

戦後イギリス軍シンガポール裁判で、憲兵隊による拷問致死戦争犯罪とされて、昭南憲兵隊憲兵分隊隊長住田中佐以下21名が起訴され住田隊長以下8名が絞首刑になった

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/04 04:21 UTC 版)

アピ事件」の記事における「戦犯裁判」の解説

戦後イギリス軍ジェッセルトン裁判で、検察側は第37憲兵隊クチン分隊加藤忠一郎憲兵軍曹英領ボルネオのランギラン地区1943年10月ボルネオ住民1名の殺害関与し同月27日頃、メンガタル憲兵隊本部付近においてボルネオ住民たる中国人女性1人殺害した容疑起訴した。しかし法廷で、検察側の証人となった現地住民証言不確かだったため、事実関係確認されず、初回裁判加藤軍曹無罪言い渡された。 英軍側は加藤軍曹についてもう一度裁判開いて刑を確定し、このほかにアピ事件関連した裁判は4件をもって終了した被告も4名で、宮本久憲軍曹絞首刑中尾正憲兵准尉禁錮10年加藤忠一郎憲兵軍曹2回目裁判禁錮15年西山二郎憲兵軍曹禁錮12年判決受けた

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戦犯裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 09:05 UTC 版)

撫順戦犯管理所」の記事における「戦犯裁判」の解説

日本人戦犯改造政策並行して最高人民検察院東北工作団によって検証進められ現場検証目撃証言収集が行われた。 1955年9月に、裁判が行われ、155名が起訴され死刑求刑7名、執行猶予付き死刑求刑3名を検察院は求めた。しかし、周恩来減刑指示により同11月死刑求刑却下され1956年6月36 名が起訴された。太原戦犯管理所から4名を加えて合計45 名が瀋陽最高人民法院別軍法廷起訴され被告全員が罪を認め謝罪した起訴免除者は即日釈放となって1956年7月帰国実刑判決受けた者も満期前に釈放された。1964年3月までの間に日本人戦犯帰国した

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