戦犯裁判
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第二次世界大戦後、マニラ軍事裁判や極東国際軍事裁判において、第14軍の司令官の本間雅晴や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は、死の行進の責任者として有罪の判決が下り、死刑に処された。既に述べたように、バターン陥落後に捕虜への人道的な扱いを命じたことや、人道主義者であると、アメリカ側の記録にも認知されていた本間であるが、その本間が、戦時中の部下の捕虜への過酷な待遇や残虐行為について知らなかったのは本当であり、軍事裁判で初めて事実を知ることとなった。 偽の殺害命令を出して虐殺をおこしたとされる辻政信中佐は、終戦時にバンコクで僧に変装して潜行し、フランス領インドシナ・中華民国を経て、1948年5月に日本に帰国、数人の元高級将校に匿われて、戦争犯罪追及を逃れていた。GHQは辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をGHQ参謀第2部(G2)のエージェントとして利用し、結局辻が戦犯として逮捕・起訴されることはなかった。
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戦犯裁判
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バターン半島の陥落後、1942年8月に参謀本部附となり、内地へ戻る。「日本ニュース」第115号にて、「本間将軍帰還」の肉声・映像が残っている。同月、予備役に編入され、以後は軍務に就くことなく、フィリピン協会理事長を務めて終戦を迎えた。予備役編入の理由は、バターン攻略の不手際をとがめられたものとされる。終戦後、「バターン死の行進の関係者が処罰されるのでは」という話を陸軍が聞きつけ、「先手を打って処罰すれば刑が軽くなるのではないか」(いわゆる『一事不再理』の発想)と考え、本間の陸軍中将としての礼遇を停止した。 1945年12月12日早朝、本間の身柄は勾留先の巣鴨拘置所から厚木飛行場を経てマニラ向け送られた。この日は同年12月2日に指名されたA級戦犯容疑者(第三次戦犯指名)が巣鴨拘置所に出頭する日であり、入れ替えが行われた形となった。 結局マニラ戦犯裁判で、本間はバターン死の行進の責任者(戦犯)として召喚された。本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への非人道行為は本間の責任ではなく、部下の責任であった。しかし、結果的に責任をとることとなり、有罪判決が下り、本間は死刑と決まった。この訴状はこの裁判のために作った事後法の「指揮者責任」だった。有罪判決が下ると本間の弁護団はアメリカ連邦最高裁判所に人身保護令を求めたが、6対2の判決で再審が却下された。 処刑は、1946年(昭和21年)4月3日0時53分、ちょうど4年前に第14軍司令官であった本間の口より総攻撃の命令が下された同じ月日(神武天皇祭の日)、同じ時刻にあわせて執行された。当時、ほとんどの将校が囚人服で絞首刑に処せられたのに対し、本間の場合は、略式軍服の着用が認められ、しかもその名誉を重んじて銃殺刑であった(同じくマニラの軍事裁判で死刑判決が下された山下奉文の場合は、囚人服を着せられたままの絞首刑であった)。58歳没。 辞世の句は次のとおりであった。 「戦友眠る バタンの山を眺めつつ マニラの土となるもまたよ志」「甦る 皇御國の祭壇に 生贄として命捧げむ」「栄えゆく 御國の末疑わず こころゆたかに宿ゆるわれはも」「予てより 捧げし命いまここに 死所を得たりと微笑みてゆく」「恥多き 世とはなりたりもののふの 死ぬべき時を思ひ定めぬ」 1945年(昭和20年)12月19日審理開始、1946年2月11日(紀元節の日)判決、同年4月3日銃殺という早さで処刑されたのは、この裁判がコレヒドールで屈辱的な敗北をしたマッカーサーの本間への復讐劇であったと言われている。
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戦犯裁判
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「連合国軍占領下の日本」の記事における「戦犯裁判」の解説
極東国際軍事裁判(東京裁判) 1945年(昭和20年)8月8日に英米仏ソの連合国4国がロンドンで調印した国際軍事裁判所憲章に基づき、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、同年1月19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が極東国際軍事裁判所設立を宣言した。裁判は1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われ、憲章第6条A項が規定する「平和に対する罪」に違反したとされる政治家や軍関係者をA級戦犯容疑で約100人を逮捕、そのうち28人を起訴した。裁判の結果、7名が死刑、16名の終身刑の判決を受けて処罰された。 当初55項目の訴因が挙げられたが、ポツダム宣言6項にある「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」と「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため退けられ、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外され、最終的には「1928年から1945年に於ける侵略戦争に対する共通の計画謀議」、「 満州事変以後の対中華民国への不当な戦争」、「米・英・仏・蘭に対する侵略」の計4項目、その他合計10項目の訴因にまとめられた。 なお、敗者である日本が、勝者である連合国軍に裁かれた極東軍事裁判は、ドイツで行われたニュルンベルク裁判同様、法律家や歴史研究者のみならず、右派や国粋主義からも批判されている。当時ではイギリス領インド帝国のラダ・ビノード・パールが「裁判の体を成していない」「復讐目的の裁判」「事後裁判だ」と批判した。 BC級戦犯 約5600人がBC級戦犯として各地で逮捕された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、約1000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。 BC級戦犯の中には、日本の海外領土であった朝鮮人が148人、台湾人が173名が含まれていた。
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戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 22:58 UTC 版)
この事件は、戦犯裁判で起訴されたが、十分な条件が整わず、無罪に終わった。
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戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:55 UTC 版)
オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により、収容所側将兵には下記のような極刑が科せられた。また、殺害を実行した台湾人監視員達には、懲役刑が科せられた。 星島進大尉 絞首刑(死刑) 山本正一大尉 絞首刑(死刑) 阿部一雄中尉 死刑 高桑卓男大尉 絞首刑(死刑) 渡辺源三中尉 銃殺刑(死刑) 室住久雄曹長 終身刑 サンダカン捕虜収容所を統括するボルネオ捕虜収容所クーチン本部に指令を出した第三七軍司令部に対しては、馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑になったものの、第一回の捕虜移動を計画した山脇正隆中将(前軍司令官)はこの件に関しては一切罪に問われる事はなかった。ボルネオ捕虜収容所全体の最高責任者であり、関係者の中では比較的人道的であった菅辰次大佐は9月16日に自殺していた為、訴追される事はなかった。 なお、これら罪状の立証について、殆ど審理は行われておらず、刑の根拠には疑念を抱かざるを得ないとする見解もある。
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戦犯裁判
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「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」の記事における「戦犯裁判」の解説
詳細は「大船収容所事件」を参照 戦後、30人の関係者が捕虜虐待などの戦争犯罪人(BC級戦犯)として起訴された。収容者の死亡者が6人と少ない(他の国内の収容所では100人以上の死亡者が発生した施設が複数ある)にもかかわらず、これだけの関係者が起訴された点について、笹本妙子は、収容者を正規の捕虜として扱わなかった特異な性質と関係しているのではないかと推測している。判決では所長・軍医大佐・衛生曹長の3人に絞首刑が言い渡されたが、減刑されて終身刑2人、残りが懲役刑(刑期は最長で40年)となった。
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戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/30 00:51 UTC 版)
戦後、イギリス軍シンガポール裁判で、憲兵隊による拷問致死が戦争犯罪とされて、昭南憲兵隊の憲兵分隊隊長・住田中佐以下21名が起訴され、住田隊長以下8名が絞首刑になった。
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戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/04 04:21 UTC 版)
戦後、イギリス軍ジェッセルトン裁判で、検察側は第37軍憲兵隊クチン分隊・加藤忠一郎憲兵軍曹を英領ボルネオのランギラン地区で1943年10月にボルネオ住民1名の殺害に関与し、同月27日頃、メンガタル憲兵隊本部付近においてボルネオ住民たる中国人の女性1人を殺害した容疑で起訴した。しかし法廷で、検察側の証人となった現地住民の証言が不確かだったため、事実関係が確認されず、初回の裁判で加藤軍曹は無罪を言い渡された。 英軍側は加藤軍曹についてもう一度裁判を開いて刑を確定し、このほかにアピ事件に関連した裁判は4件をもって終了した。被告も4名で、宮本久憲軍曹が絞首刑、中尾正二憲兵准尉が禁錮10年、加藤忠一郎憲兵軍曹が2回目の裁判で禁錮15年、西山二郎憲兵軍曹が禁錮12年の判決を受けた。
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戦犯裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 09:05 UTC 版)
日本人戦犯改造政策と並行して、最高人民検察院東北工作団によって検証が進められ、現場検証や目撃証言の収集が行われた。 1955年9月に、裁判が行われ、155名が起訴され、死刑求刑7名、執行猶予付き死刑求刑3名を検察院は求めた。しかし、周恩来の減刑指示により同11月に死刑求刑は却下され、1956年6月に36 名が起訴された。太原戦犯管理所から4名を加えて合計45 名が瀋陽の最高人民法院特別軍事法廷で起訴され、被告全員が罪を認め謝罪した。 起訴免除者は即日釈放となって1956年7月に帰国、実刑判決を受けた者も満期前に釈放された。1964年3月までの間に日本人戦犯は帰国した。
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