エージェントとして
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野村は渡米後、エージェントとして活動するようになる。1993年にマック鈴木の代理人として、MLBシアトル・マリナーズとのマイナー契約を締結。日本人選手の代理人としての第一歩を踏み出した。同年、ロサンゼルス市に「ダン野村オフィス(後のKDNスポーツ社)」を設立。 1995年、当時近鉄に所属していた野茂英雄のメジャーリーグ挑戦時に代理人として登場。この際、野村はMLBコミッショナー事務局を通じて、「日本の球団を任意引退した選手の海外球団への移籍の可能性」についての質問状を日本コミッショナー事務局に送付した。この質問状に対して事務局側は「日本の任意引退選手が現役復帰する際に日本国内を選ぶ場合は保有権を有する球団が優先される。海外球団とならば契約できる」と返答した。結果、日本におけるプロ野球協約の盲点を突く形で、野茂のMLB挑戦が可能であることを示した。 同年はロビンソン・チェコの代理人としても活動し、広島東洋カープと交渉しているが、これは訴訟問題にまで発展した。翌1996年、当時千葉ロッテマリーンズに所属していた伊良部秀輝のメジャーリーグ移籍騒動に代理人として係わった。また1998年には、アルフォンソ・ソリアーノの参稼報酬調停にも関与した。 2006年、日本に関連会社を設立、2008年にKDNスポーツジャパン(現:Athlete Solution)を興す。競技を超えたスポーツビジネスの展開を標榜し、日本における営業強化を図った。 2010年11月、ポスティングシステムでのメジャー移籍を目指した岩隈久志の代理人を務め、最高額を入札したオークランド・アスレチックスと交渉を行う。交渉は難航し、22日にはアスレチックスとの交渉決裂が報じられた。野村は当初この報道を否定したものの、2週間後の12月6日に契約不成立が発表された。これについて野村は双方の希望に隔たりがあったと自身のTwitterで明かした。その交渉内容は、野村側が松坂大輔や黒田博樹の契約を比較対象として挙げたのに対し、アスレチックス側はコルビー・ルイスや井川慶を比較対象として挙げたというものであった。しかしその一方で、バリー・ジトが2007年にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約した際の7年1億2600万ドルを比較対象として契約を要求したとの報道がなされた。野村は日本のメディアに対してこれを否定したが、サンフランシスコ・クロニクル紙のスーザン・スラッサーは「団氏がバリー・ジトの契約を要求したことに間違いはない。それだけでなく、団氏自らが『岩隈側の要求をもっともよく説明している記事』と引用し続けたほど」と反論した。交渉決裂後、アスレチックスと地元紙から、それぞれ「うそをリークして報道させた。不愉快な思いをさせた」「事実と違う報道をした」という趣旨で謝罪があったことを野村を通じて岩隈に伝えたとする報道がなされた。しかし、サンフランシスコ・クロニクル紙はこれを否定。その後、野村は「『謝罪した』とする発言について明日取り消す」と同紙に連絡を入れたという(実際に取り消されたかは不明)。翌2011年8月2日には岩隈が代理人をポール・コブに変更していたことが報じられた。 その後はポスティングシステムの制度改革を主張した他、日本球界の年俸調停制度の問題点を指摘。自身が代理人を務めていた伊良部秀輝がロサンゼルスの自宅で死去していたことが報じられた際には「伊良部秀輝はファイターだった。彼は米国と日本の間に真の歴史をつくった」とコメントした。 2019年11月、野村が経営するKDNが持株会社「Ortus Vaux Holding」やKDNスポーツジャパンを含めて、日本の芸能事務所アミューズに買収される。アミューズグループ入り後KDNスポーツジャパンは「Athlete Solution」に社名変更したが代表取締役として、現役野球選手、サッカー選手の代理人(エージェント)の他、解説者・評論家のマネジメント等を行っている。
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