エージェントと評議員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:52 UTC 版)
「ジョナサン・ベルチャー」の記事における「エージェントと評議員」の解説
エリゼアス・バージェス大佐が新王からマサチューセッツとニューハンプシャー植民地の総督に指名された。ベルチャーは同朋のジェレマイア・ダマーと共に、バージェスが支持を約束していた不動産担保銀行提案の反対者を代表する者であり、バージェスに1,000ポンドの賄賂を贈って、イングランドを離れる前に辞任させた。ダマーとベルチャーはバージェスの代わりにサミュエル・シュートを推薦した。シュートは著名な非国教徒一族の出身だったので、ニューイングランドでもうまく受け入れられると考えたからだった。彼らはシュートが植民地の地位を得た後で、植民地における政治状況に関して指導を行った。シュートは1716年10月4日にボストンに到着し、困難で異論の多い任期を始めた。まずは総督代行のウィリアム・テイラーではなく、最後の指名総督だったジョセフ・ダドリーの息子であり、土地担保銀行の反対者だったポール・ダドリーの住居を使うことで、その姿勢を鮮明にすることになった。 ベルチャーは1718年にマサチューセッツ総督評議員に選出された。シュートが総督である間、ベルチャーは概して総督を支える政治的会派に属すると見られていた。その後人民党指導者のエリシャ・クック・ジュニアの妨害によって評議員になったり止めたりを数度繰り返した。この闘争は1722年末にシュートが植民地を離れた後も継続した。シュートは議会との食い違いをロンドンの枢密院に告訴するためにロンドンに向かった。しかしベルチャーは、その後に続いたウィリアム・ダマー(ポール・ダドリーの義兄弟)の政権の時よりも、ポール・ダドリーが影響力を行使するようになったことに、次第に不満を感じるようになった。 次の総督ウィリアム・バーネットが1728年にボストンに到着した時、ベルチャーは明らかにクックが操作した選挙で、思いがけなくボストンのタウンミーティング議長に選ばれた。バーネットはその給与に関する議会との論争の中で、クックとベルチャーはその問題に関する共通の姿勢を保っていた。この問題は前任のシュートの時に問題となり、バーネットの短い任期の大半でも続いた。ベルチャーは総督の給与について植民地の政治姿勢を説明するために、ロンドンに派遣するエージェントとして選出され、クックはその旅に必要な資金を集めるのを助けた。
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