総督代行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:25 UTC 版)
「ウィリアム・ストートン」の記事における「総督代行」の解説
ストートンは魔女裁判に加えて、1869年に起こったウィリアム王戦争に対する植民地の対応を監督することになった。当時は現在のメイン州を含んでいたマサチューセッツは、ヌーベルフランスとの戦争の最前線にあり、北部フロンティアの町がフランスとインディアンからの襲撃でかなりの被害を蒙った。フィップス総督はしばしばメインに行ってそこの防御物建設を監督したので、ストートンはマサチューセッツに残って諸般の事情を監督することになった。そのような総督不在の間に、例えばストートンは、同様に襲撃で破壊されていた隣接するニューハンプシャー植民地を守るための小さな民兵隊立ち上げに責任があった。1694年初期、フィップスが職権乱用という告発に答弁するためにロンドンに呼び戻された。フィップスが出発したのは11月になってからであり、その後はストートンが総督代行となった。フィップスは1695年初期にロンドンで死亡した。まだフィップスに対する告発に対して審問が行われる前のことだった。 ストートンは自身を急場の世話人と見ており、王室が新しい総督を指名するまで政府を運営した。その結果、植民地議会にかなりの程度で自治権限を与えることになり、その慣習ができると後の総督と議会の関係が複雑になった。植民地の政策を実行するために、比較的活発な手段も採っており、ロンドンからの指示に従うためには最小限のことをしただけだった。植民地の役所の評論家は、ストートンが「良き学者だ」と見たが、「航海法を執行するには適していなかった」とも見ていた。 1695年、ストートンはアカディアからフランスが繰り出す私掠船の行動に抗議した。私掠船はニューイングランドの漁船や商船の船隊に大損害を与えていた。その行動に反撃するために、ベンジャミン・チャーチがアカディアに対する襲撃隊を組織することを認めた。チャーチが遠征のために兵士を募集しているときに、ヌーベルフランスの総督フロンテナック伯爵ルイ・ド・ボードがメインのペマキッドにあったイングランド人砦を標的とする遠征隊を組織した。チャーチがまだ出発していなかった1696年8月に、ペマキッド砦が奪われ破壊されたという報せが入った。ストートンがチャーチに出した指示はある程度曖昧なものであり、チャーチはファンディ湾の奥にあるボーバッサンを襲撃した以外ほとんど何もせずにボストンに戻ってきた。。チャーチが戻って来る前に、ストートンは第2の小さな遠征隊を組織し、セントジョン川沿いのナッシュワーク砦を包囲させたが、不首尾に終わった。これら遠征の失敗により、植民地の武力の不適切さを際立たせることとなり、マサチューセッツ議会はロンドンに救援を要請した。 1697年のレイスウェイク条約でフランスとイングランドの間に和平が戻ったが、北方のアベナキ族インディアンに関わる問題は何も解決しなかった。その結果、フロンティアでは緊張関係が続き、漁場に関して、またニューイングランド人が魚を乾すためにアカディアの土地を使うことに関する議論が続いた。ストートンとアカディアの総督ジョセフ・ロビノー・ド・ビルボンは1698年にこの問題に関する非難や脅迫を応酬した。ビルボンはマサチューセッツの船舶を捕捉し、アカディア領土に残された資産を押収すると脅したが、それを実行するに足る資源を持っていなかったので、大部分は空脅しだった。ストートンはロンドンに外交的援助を要請し、それで幾らか緊張関係を和らげることができた。 ストートンは1699年まで総督代行を続け、一方で首席判事も務めていた。ベロモント伯が総督となった短期間に副総督として残り、ベロモント伯が1700年に去った後には再度総督代行を務めた。しかしその頃には健康を害しており、その最晩年にはほとんど特筆すべきことを残せなかった。
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