ニューハンプシャー植民地とは? わかりやすく解説

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ニューハンプシャー植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/28 01:55 UTC 版)

ニューハンプシャー植民地
Province of New Hampshire (英語)

1629年 - 1641年
1680年 - 1686年
1689年 - 1788年



レッド・エンサイン (国章)

ニューハンプシャー植民地の位置
公用語 英語
首都 ポーツマスエクセター
国王
1664年 - 1680年 チャールズ2世
1769年 - 1776年 ジョージ3世
総督
1697年6月18日 - 1702年3月5日 リチャード・クート
1702年4月1日 - 1716年10月7日 ジョセフ・ダドリー
1716年10月5日 - 1723年1月1日 サミュエル・シュート
1729年12月11日 - 1741年12月12日 ジョナサン・ベルチャー
1741年6月4日 - 1767年7月30日 ベニング・ウェントワース
変遷
創立 1629年
ニューイングランド王領時代 1686年 - 1689年
アメリカ合衆国に加入、ニューハンプシャー州 1788年6月21日
通貨 スターリング・ポンド
国際電話番号 080-234-19
現在 アメリカ合衆国

ニューハンプシャー植民地(ニューハンプシャーしょくみんち、: Province of New Hampshire)は、1691年10月7日から1788年まで、北アメリカ、現在のアメリカ合衆国ニューハンプシャー州の領域に存在したイギリス王室領植民地である。その勅許は1692年5月14日イングランド王国とスコットランド王国の共同君主となったウィリアムとメアリーによって、マサチューセッツ湾直轄植民地と同じ時に法制化された。どちらの植民地もマサチューセッツ湾植民地の一部だった。

ニューハンプシャー植民地はニューファンドランド知事ジョン・メイソンによって、イングランド南部ハンプシャー州に因んで名付けられた[1]

この植民地は1741年まで専従の総督がいなかったが、その後ベニング・ウェントワースが指名された。その後のニューハンプシャー払下げで与えられた土地の多くは後にバーモント州となった。

歴史

インディアンの時代

もともとはロングハウス(かまぼこ型住居)の大集落に住む、インディアン部族のアベナキ族の領土だった[2]。彼等は季節によって集落近くに留まって漁労、植物の採集、砂糖漬作りおよび交易に関わるか、近くの種族と戦いあるいは近くの野鳥狩りや狩猟場に向かった。後にはタバコも栽培し、いわゆる「三姉妹」トウモロコシ類およびスカッシュ(カボチャ)を栽培した[2]

イギリス人の入植

1691年より以前、「ニューハンプシャー植民地」は1623年から1680年の日付がある幾つかのイギリス土地特許の産物だった。その植民地の歴史の大半、ボストンに本拠を置くマサチューセッツ湾植民地に支配された。

1631年、トマス・ウィギン船長がニューハンプシャーのアッパー・プランテーション植民地の初代知事として務めた。これは現在のドーバーダーラムおよびストラットハムで構成されていた。

他の入植地、リトルハーバー、ドーバー、ポーツマスおよびエクセターが従った。入植者を送って漁業の植民地を造りたいと思ったジョン・メイソンが、デイビッド・トムソン、エドワード・ヒルトンおよびトマス・ヒルトンを派遣した。彼等はドーバー市やリトルハーバー市を設立した。エクセターの入植地は1638年アン・ハッチンソンの弟子ジョン・ホイールライトによって設立された。これらの町は1639年に統合され、1641年にマサチューセッツ湾植民地に合流することに合意した。

1680年1月1日、ニューハンプシャーはマサチューセッツから分離し、別の政府を持つ植民地になった。1688年ニューイングランド王領に統合されるが、王領の崩壊に伴い1691年に最終的に分離され、この時点でニューハンプシャー植民地となった。

脚注

  1. ^ State Facts”. New Hampshire Division of Travel and Tourism Development. 2008年8月18日閲覧。
  2. ^ a b Native Americans in Vermont: the Abenaki, from flowofhistory.org, a website funded by educational grants

関連項目

参考文献


ニューハンプシャー植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:52 UTC 版)

ジョナサン・ベルチャー」の記事における「ニューハンプシャー植民地」の解説

ニューハンプシャー植民地でのベルチャー政権友好的に始まったが、急速に危ないものに変わった副総督のジョン・ウェントワースは、総督の職が現実のものとなったときにサミュエル・シュート支持提案しており、その後報復のために完全にウェントワース一族支持方向向いた。ベルチャーはリチャード・ウォルドロンと同盟し友人となった。ウォルドロンはウェントワースの仇敵であり、ベルチャーの姻戚だった。ジョン・ウェントワースは副総督としての長い任期の間に、植民地大土地所有者や商人達の双方に対して大きな権力基盤築いていたので、強力な敵もできていた。伝記作者のマイケル・バティンスキは、ベルチャーがウェントワースとその同盟者庇護者となれる地位から外したのは、ウォルドロンの影響だったと言っている。ウェントワースの権力基盤は、ニューハンプシャーマサチューセッツ組んで共通の総督戴いていることに不満であり、マサチューセッツの人がその地位占有している事実快く思わない者が多かったニューハンプシャー議会はベルチャーに対して敵対的であり、その貿易委員会にベルチャーの反対があったとしても植民地評議員幾人かを指名させるよう説得することが出来ていた。ベルチャーは何度同調的な議会にしようとして、その任期の間に10回も選挙を行わせたが、うまく行かなかった。この妥協しない議会はベルチャーの提案する法案の成立拒否した。 ジョン・ウェントワースが1730年死んだ後、ニューハンプシャー植民地副総督にデイビッド・ダンバーが指名されたことに、ベルチャーは失望したダンバーはウェントワースに対して友好的であり、国王測量士でもあったので、船のマストに使うのに適した木を識別しニューイングランド北部全ての払下げ地での違法な伐採起こらないようにする責任があった。この仕事は、それらの土地違法な木の伐採行っていたベルチャーのかなりの数の支持者対抗するものであり、その伐採総督明らかに容認していたことだった。ベルチャーは、ダンバー権限行使できないようにするあらゆる手段講じダンバー評議会委員にすることを拒否しボストンからポーツマス何度も旅して、自らの権限行使した。この二人互い毛嫌いしており、ダンバー1731年指名されてから間もなくベルチャーの解任ロンドン働きかけるように支持者動かし始めていた。ベルチャーの同盟者による違法な伐採活動結局ウィリアム・シャーリー注意惹くこととなったシャーリー植民地海事裁判所王室推進者であり、その庇護者強力なニューカッスルトマス・ペラム=ホールズだった。

※この「ニューハンプシャー植民地」の解説は、「ジョナサン・ベルチャー」の解説の一部です。
「ニューハンプシャー植民地」を含む「ジョナサン・ベルチャー」の記事については、「ジョナサン・ベルチャー」の概要を参照ください。

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