ノースカロライナ植民地
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- ノースカロライナ植民地
- Province of North Carolina
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1712年 - 1776年 (レッド・エンサイン) (王室紋章(1714年 - 1776年)) -
国の標語: Quae Sera Tamen Respexit
たとえ遅くとも、ついには報われた -
国歌: God Save the King
国王陛下万歳
United_States_Navy_Band_-_God_Save_the_Queen -
ノースカロライナ植民地の位置[注釈 1] -
公用語 英語 首都 ニューバーン 通貨 ポンド 現在 アメリカ合衆国
ノースカロライナ植民地(ノースカロライナしょくみんち、英語: Province of North Carolina)は、1729年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国ノースカロライナ州の領域に存在したイギリスの植民地である。当初は領主8人によって勅許されたカロライナ植民地の一部であった。
イングランド王チャールズ2世は、バージニア植民地より南でスペイン領フロリダより北の土地に1663年のカロライナ勅許を認めた。この植民地の北半分は南半分と著しく異なっていたために、また2つの地域の間の輸送や情報伝達が難しかったために、1691年から北半分に別の副知事が指名されて統治するようになった。この植民地の北と南への分割は1712年に完成し、北半分は「ノースカロライナ」と称したが、同じ植民地領主が両植民地を支配していることに変わりなかった。1719年に南半分のサウスカロライナで領主に対する反乱が起こり、1720年にサウスカロライナには総督を指名するようになったが、植民地領主はノースカロライナの知事を指名し続けた。
1729年、8人の植民地領主のうち7人から土地を買い上げる試みがイギリス政府によって10年間近く行われ、両カロライナは王室領植民地になった。最後の8分の1の取り分は(グランビル地区と呼ばれるノースカロライナの一部)、アメリカ独立宣言の1776年までカートレット家の者が保持していた。
植民地の地図で2つの重要なものが作られた。ひとつは1733年のエドワード・モズリーによるものであり、もうひとつは1770年のジョン・コレットによるものであった。ノースカロライナ植民地の開拓者の多くは貧しいタバコ農家であり、この単一作物で生計を立てていた。サウスカロライナでは農家のプランテーションがかなり大規模なものであり、開拓者たちは米を栽培し、それが利益を生む作物となっていた。また、サウスカロライナの人々はアイを育てており、衣類や糸を青く染める貴重な染料として使用した。
脚注
- ^ テネシー地区を含む
参考文献
- Ekirch, A. Robert. "Poor Carolina": Politics and Society in Colonial North Carolina, 1729-1776. University of North Carolina Press, 1981.
- Lefler, Hugh T., and William S. Powell. Colonial North Carolina: A History. Scribner, 1973.
関連項目
外部リンク
- "A Complete map of North-Carolina from an actual survey." John Collet's 1770 map of the colony of North Carolina.
- ノースカロライナ植民地のページへのリンク